足門村 発祥之地

あしかどむらはっしょうのち

上越線 群馬総社駅から南東に2.5km。高渋線(三国街道)の“足門あしかど”交差点から西に入り、足門町南集会所の東側の住宅地の中。白壁の建物の向い側に15段ほどの石段を上ったところに立派な薬師堂がある。堂の左横に「足門村発祥之地」と書かれた本を開いた形にデザインされた石碑が建っている。

「足門村」は、明治22年(1989) まで群馬県に存在した村で、隣接の金古村と合併して「金古町」となった。昭和30年(1955) に町村合併により「群馬町」となり、平成の大合併により平成18年(2006) に「高崎市」に吸収され、現在は高崎市足門町となっている。

碑文に書かれている文言によると、「足門の地名の起源は『足の御門』という名前による」という。「足の御門」とは「足のミカド(⇒「帝」⇒「天皇」)のことと解釈できる。「足の天皇」とは、「大足彦忍代別天皇おおたらしひこおしろわけのすめらみこと」といういみなを持つ第12代「景行けいこう天皇」のことで、「大足彦おおたらしひこ」の「足」をとって「たらしのミカド」と呼ばれたと思われる。

つまり、この薬師堂は景行天皇によって創建され、それによってこの地が足門村とよばれることになった、というものである。

景行天皇とその子日本武尊やまとたけるのみことは古事記・日本書紀に書かれた神話上の人物だが、日本武尊は東征(蝦夷征討)のために関東から東北地方に入ったとされて、各地に日本武尊に関する伝承が残されており、景行天皇も日本武尊の死後東国巡幸に出たとされ、やはり各地に足跡(の伝承)を残している。この地もその一つなのであろう。

この薬師堂は個人(中澤氏)の宅地内にあり、平成11年(1999) に中澤正朗氏が建築したという記録がある。堂宮入秀社寺建築(株)「建築実績一覧」(予備.zip)による)。薬師堂の建立由来の碑には次のように書かれている。

(略)

当薬師は古来眼を患う人々から篤い信仰を受けてきたが、昭和二十二年(1947)農地解放により旧朱印領を失い、次第に境内地及びお堂の荒廃が目立ち、その復興に心を痛めていたところ、信心施主中澤昇翁の多額の浄財により、茲に薬師堂並びに浄域の再建と整備を見るに至った。

写真

  • 足門村発祥之地 薬師堂
  • 足門村発祥之地
  • 足門村発祥之地
  • 足門村発祥之地 碑文
  • 足門村発祥之地 側面
  • 足門村発祥之地
  • 薬師堂

碑文

足⻔村発祥之地

足⻔の
 地名の起源
  他人问えば
 タラシの御⻔
  御名そのもの

巨松

足の御⻔とは当薬師堂を建立なされました第十二代景行天皇様の御事で本名を大足彦忍代別尊と称され日本武尊の御父君に当り大王と云われる程の大器であったと伝えられる

地図

地図

高崎市足門町 付近 [ストリートビュー]