知多 酪農 発祥之地

ちたらくのうはっしょうのち

武豊線 半田駅前。駅舎に向かって左側に「知多酪農発祥之地」と書かれ3頭の乳牛をかたどった大きな石碑(レリーフ)が、またその横には発祥の由来を書いた副碑が建っている。

半田市は知多半島の経済の中心で、古くから醸造業が盛んな町。明治14年(1881) 頃、地元の実業家・4代目中埜又左ヱ門が乳牛を購入し牛乳を自家用として利用していたが、やがて半田駅南東一帯に牧場を開き本格的に酪農を始め、瓶詰めの“ミツカン牛乳”(後に“みどり牛乳”と改称)を販売したのが知多地方における酪農の発祥である。

やがて鉄道の開通に伴い半田駅が開設されると、駅前に牧場があっては不都合が多くなったため、明治32年(1899) に隣町(柊町)に移転し、大正末期には乳牛50頭を数える規模に発展した。その後この地方の乳牛の飼育が盛んになり、知多半島の酪農農家は増え続け、現在では酪農農家1戸当たりの飼養頭数が日本一を誇る酪農王国へと発展した。

余談だが、創業者の中埜家は江戸時代中期から酒造業を営んでいたが、酒粕を利用した食酢(粕酢)造りを始め、この頃に江戸でブームになった握り鮨(“なれ鮨”に対して“早ずし”と呼ばれた)の流れに乗って成功をおさめ、“ミツカン酢”は食酢メーカーのトップ企業となった。

4代目中埜又左ヱ門は異業種へも積極的に参入し、上記の通り牛乳メーカーを起業したほか、ビール会社をおこして“丸三麦酒”(後に“カブトビール”)を販売、倉庫業なども始めた。

更に5代目又左ヱ門は“中埜銀行”を創業し、電力会社やガス会社の設立にも関与するなど、幅広く地域振興・産業振興に尽力した。

写真

  • 知多酪農発祥の地 碑文
  • 知多酪農発祥の地

碑文

知多酪農発祥之地

知多酪農発祥の地由来

明治初期に、四代目中埜又左ヱ門氏は滋養と健康の目的で乳牛を購入し自家飲用に供していたが、明治十七年一月、牛乳を愛養舎豢場と名付けて営業を始めた。

明治十九年、牧場の西に隣接し武豊線半田停車場が設置され、明治三十二年、柊町に移転した。その後、先人に習い乳牛を飼育する者が増え昭和十二年、知多牛乳が設立、昭和五十六年、みどり牛乳に改められ知多半島の酪農も大きく発展し日本一の酪農地帯となる。

ここに、酪農発祥百年を記念し同志相集り先人の遺徳を讃え、碑を建立するものである。

平成四年九月二十日

知多酪農発祥百年を記念する会

地図

地図

半田市御幸町 付近 [ストリートビュー]