シクラメン 栽培 発祥の地

しくらめんさいばいはっしょうのち

明知鉄道 東野駅の南約500m、東野コミュニティーセンター南東側駐車場の一画の緑地に、やや新しい黒く大きな石碑がある。敷地内には他に、愛林碑・蚕の碑も建っている。

東野の養蚕家に生まれた伊藤孝重こうじゅうは信州大学繊維学部(当時は 上田蚕糸専門学校)に進学。修学旅行で東京にでかけた折りに三越で見かけ釘付けになったのがシクラメンの鉢だったがその当時は何の花なのかわからずにいた。そして卒業、帰郷。地域一帯で沸き立つ養蚕を継がずに花卉栽培を始めた孝重が東野の北側で大井ダムの指導をしていた技師宅へ花を販売に出かけた時に、夫人に勧められたのがあの修学旅行で見かけた花がシクラメンであったことを知る。

日本には無い品種だったので、ドイツから種子を取り寄せることにし、ドイツマルクに替え為替送金。東野地域はもともと養蚕が盛んで、アジアやヨーロッパ各地と取引がさかんであったため、為替等の心配はあまりなかったとされる。

その後、栽培方法がわからず暗中模索するも、探究心旺盛な青年は自らの栽培日誌から研究を重ね、大正12年(1929)ついに栽培に成功した──。

現代では、赤く血の色を連想させ、名前に「死」「苦」を含むシクラメンの鉢は、お見舞い品には不適当であると不当なマナークリエイターによって蔑まれがちである。

なお、東野コミュニティーセンターに行くと、シクラメンパンフレットをいただけるようです(たぶん開館時間に限られると思います)。

写真

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碑文

シクラメン栽培発祥の地

日本におけるシクラメン栽培の創始者はここ恵那市東野の伊藤孝重氏である

明治三十年旧恵那郡東野村井ノ下の養蚕家に生まれた伊藤孝重氏は温厚寡黙で才知に富み外国語を能くす 上田蚕糸学校に進学するも卒業後 草花の栽培に興味を抱く おりしも建設中の大井ダムのアメリカ人技師婦人の示唆を受けドイツの種苗会社から種子を購入 シクラメンの育成に着手

丹精と工夫を重ね大正十二年栽培に成功し「榎シクラメンナーセリー」として国内外に販売を開拓し我が国のシクラメン栽培の先駆者となる

昭和に入り天王前の千藤恩三・猛司父子が「松の本シクラメン園」として事業を継承拡大し東野が一大生産地となる

全国で咲き競うシクラメンに先人の偉業を追慕しここにその功績を讃え碑を建立する

平成二十五年十一月

東野まちづくり委員会

地図

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