都々逸 発祥之地

どどいつはっしょうのち

名古屋市営地下鉄 名城線 伝馬町駅の南東200mのところに姥堂(熱田区伝馬2丁目5-19)という鉄筋コンクリートの堂があり, そこに「裁断橋跡」と「都々逸発祥の地」の碑が並んで建っている。

「都々逸」は, 七七七五調を定型とする短詩。五七七七五 という形式をとることもある。元来は 三味線を伴奏とする俗曲で, 寄席や座敷などで唄われ 男女の情愛を題材とした内容の ものが多い。 江戸末期・天保年間に“都々逸坊扇歌”という人物が江戸の寄席で流行らせたと言われるが, その起源は 上方を中心に流行していた「よしこの節」に「名古屋節」の合の手 「どどいつどどいつ」を取入れ, 唄いやすいように改良したという説が有力とされる。

この地がなぜ 発祥の地 とされたのかは, 資料が乏しく不明。

写真

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碑文

都々逸発祥之地

裁断橋

 文献では永正六年(1509)『熱田講式』に名が見られるの が初見とされている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて, そこ に架けられていたが大正十五年に川が埋立られ, 橋の擬宝珠四基 は残されて道路脇に保存されてきた。大正十五年出版の『橋と塔』 浜田青陵により全国的に存在が知られ, 母が子を思う擬宝珠の仮 名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。
 昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬 宝珠四基が移設保存され, 後には小学校の教科書に堀尾金助の母 の銘文が取り上げられもした。しかし, 青銅の擬宝珠の腐食が進 み損耗のおそれが甚しくなったので平成四年三月に名古屋市当局が この場所より撤収した。
 圓福寺では, 金助の母が 「後の世のまた後まで」と 願った思い, 子を思う煩悩 を昇華して万人の為に尽く す行為に替えた菩提心を後 代に伝える為に, 母の銘文 の拓本を取り平成五年五月 此処に架設した。

地図

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熱田区伝馬2丁目 付近 [ストリートビュー]