弘前大学 医学部 発祥の地

ひろさきだいがくいがくぶはっしょうのち

青森駅から南東に約2.7km、青い森鉄道 筒井駅から北西に2.5km、青森市中央市民センター(青森市松原1丁目6-15)敷地内北東隅に、大型な石碑がひっそりたたずんでいる。

弘前大学医学部の前身である官立青森医学専門学校は、当地にもともとあった野脇国民学校を昭和19年(1944) 3月に廃校とし、同年5月に開校した。しかし翌 昭和20年(1945) の青森空襲で附属病院と寄宿舎を焼失し、昭和22年(1947) に弘前市へ移転した。

病院等を焼失したものの校舎は焼失を免れており、昭和22年(1947) から市立野脇中学校(現在の南中学校)、市立第二中学校(現在の県立北斗高校)が授業を行った。さらに県立青森高等女学校(現在の県立青森高校)が火災で校舎を焼失したため、ここの校舎を使い3校が朝昼夕の三部授業を行ったが、3校は昭和24年(1949) までに新天地へ移転した。

入れ替わりで青森医専開校時に廃校となった野脇国民学校が復興して市立野脇小学校となり、昭和29年(1954) に現在の堤小学校の位置の新校舎への移転した。同年、市立高校の校舎で授業をしていた市立松原中学校が開校5年目にして当地の独立の校舎で授業を行ったが、昭和40年(1965) 閉校となった。

昭和44年(1969) には中央市民センターは開館。空襲資料館やプラネタリウム、小ホール、集会室、調理実習室、陶芸室、茶道室などのハードウェア、16mmフィルムやビデオなどのソフトウェアで構成される公民館。

写真

  • 弘前大学医学部発祥の地
  • 弘前大学医学部発祥の地 碑文
  • 碑の近くから見る市民センター北側
  • 中央市民センター 南側正面

碑文

鵬桜

弘前大学医学部発祥の地

沿革

弘前大学医学部は平成六年五月をもって創立五十周年を迎えた
顧みるとその母体は 数多くの先人達の設置運動が功を奏して 昭和十九年五月 当時の青森市浦町字野脇のこの地に青森医学専門学校として誕生した 時あたかも第二次世界大戦の真っただなか 教職員学生の中には召集を受けたりあるいは学徒出陣として若き命を戦火に捧げた者も数多く見られる 昭和二十年七月二十八日夜半の米軍による青森大空襲では附属病院と寄宿舎を焼失した その際 校舎から研究機器を搬出中の学生能登山繁君が焼夷弾の直撃をうけ壮絶な死を遂げたことは忘れられない痛恨事である
その後 青森医学専門学校は敗戦の逆境の下にその存立の危機にさえ直面したが 当時の教職員学生の熱情溢れる愛校心と 県民及び関係者各位の絶大なる支持を得て弘前市に移転して命脈をつなぎとめた その間 種々の試練に耐えながら常に医学の使命感に燃えて鋭意努力を重ね 昭和二十三年五月には弘前医科大学として発展し 更に昭和二十四年五月には学制改革によって弘前大学医学部となり昭和二十六年四月第一回の入学生を迎えた
今や わが医学部は年ごとに充実発展し その卒業生の数も三千七百余名に及び全国各地で活躍している 今後もわが医学部は 更に弘く前進を続け有給の栄ある歴史を作って行くであろう
医を通して世界人類の平和と幸福を祈る

平成六年六月

弘前大学医学部長 吉田 豊
弘前大学医学部鵬桜会理事長 砂糖悌二

地図

地図

青森市松原1丁目 付近 [ストリートビュー]