北海道 水田 発祥之地

すいでんはっしょうのち

函館本線 渡島大野おしまおおの 北海道新幹線 新函館北斗駅から 南におよそ5km。道道96号 上磯峠下線の文月稲荷神社近くから広域農道を南東に折れ,約400m進んだところに, 高さ3m,幅1mぐらいの大きな石碑と 北斗市が設置した説明板,それに「水田発祥の碑」と書かれた 木碑が並んで建っている。

この碑は,北海道で最も早く水田が造られた場所として建立された。

この地域における水田発祥の由来については,碑文 および説明板に書かれているように3つの説があるが,この碑は 「松前志」の記録をもとにする 元禄5年(1692) 説をとっている。

文月での稲作の成功の後,道南の各地で稲作の試みが広がったが,本格的に米が生産されるように なったのは,北海道の気候に合った品種が見つかった 150年ほど先のことになる。道南における水田の面積は,安政2年(1855) に117町歩,明治2年(1869) に332町歩だったといわれる。ちなみに 現在の北海道の水田面積は 20万町歩を越えている。

北海道の道南地域は 15世紀ごろから蠣崎かきざき氏(後に 松前氏)によって支配されていた。当時の北海道では米がとれなかったため 松前氏は石高ゼロの大名であり,正式に松前藩が 1万石の大名と認められたのは享保4年(1719) になってからである。

なお この地は,明治33年(1900) に大野村・文月村など6村が合併して 大野村となり, 昭和32年(1957) に大野町,平成18年(2006) に隣接する上磯町と合併して 北斗市となっている。

余談だが,北海道新幹線は 渡島大野駅で 函館本線との接続が計画されており, 開業時に「新函館駅」と改称される予定になっている。

北海道内の発祥の地碑として数多く水田発祥の地が数えられるが、《北海道「水田発祥の地」記念碑》という書籍が発行されるほどである。


石碑右側の「発祥の碑」という木標は撤去され、左側に標柱が追加された。

渡島大野駅は、平成28年(2016) 3月に北海道新幹線開業に伴い、新函館北斗駅に改称した。

写真

  • 北海道水田発祥之地
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  • 北海道水田発祥之地 説明板
  • 北海道水田発祥之地 碑文(2024)
  • 北海道水田発祥之地碑 (2024)
  • 北海道水田発祥之地及び記念碑 (2024)
  • 北海道水田発祥之地 (2024)

碑文

北海道水田発祥之地

北海道知事田中敏文書

水田發祥由来

亀田郡大野村字文月押上のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って人々の定着は米にあるとして地を拓し自然水により四百五十坪を開田し産米十俵を収穫した爾来消長あったが後「御上田」と称して現在に及んでいる先人未踏の北辺に今日道産米三百万石の基礎はかうして發祥したものである

渡島支庁長 岡武夫書
昭和二十四年八月建之

北海道水田発祥の地碑

 蝦夷地の米作りには,寛文年間(1661~72)貞享 二年(1685),元禄五年(1692)の記録がある。水 田発祥の地碑は,元禄五年の「松島志」の記録と村民の伝承 によって昭和二十四年(1949)に建てられた。
 碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛 門なる者南部の野田村から移って,人々の定着は米にあると してこの地を拓し,四百五十坪(約15アール)を開田し, 道米十俵(現在の二俵程度)を収穫した」と記されている。 現在の道産米の基礎はこうして発祥した。
 作右衛門の水田は二,三年で廃止され,その後も稲作は失 敗と成功を繰り返し,文化二年(1805)には箱館奉行が 大規模な水田開発を行ったが,長くは続かなかった。
 嘉永三年(1850),大野村の高田松五郎・万次郎親子 が苦心の末,米の収穫に成功すると,近隣の村々にも広がり, 安政元年(1854)以降,米作りはようやく安定した。明 治六年(1873)になって,島松(現北広島市)の中山久 蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し,米造りは 全道各地に広がったのである。

平成十八年三月吉日
北斗市教育委員会

地図

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