化学肥料 製造の嚆矢

かがくひりょうせいぞうのこうし

地下鉄 新宿線 西大島駅から南西へ750m、横十間川に架かる 大島橋 の東側に 釜屋堀公園 という小公園がある。この公園内に 「化学肥料創業記念碑」と「尊農」の碑が, また 公園の入口には 東京都が 設置した碑がある。

明治初年, タカジアスターゼの発明者 高峰譲吉が渋沢栄一の支援を得て東京人造肥料会社を設立し, 自ら 社長 兼 技師長となって 日本最初の化学肥料製造にあたった。 この工場は 大正時代まで続いたが, 関東大震災で壊滅した。

この 場所は「釜屋堀」と呼ばれるが, その由来は 次のようなものであるという。江戸時代(3代家光の時代), 太田氏釜屋六右衛門と 田中氏釜屋七右衛門 (通称釜六・釜七) が, この附近で 鋳物業を行ない なべかま などを造った。 そのため 人はこの地を「釜屋堀」と呼んだ。


当ページにおいて当初はまるで「化学肥料創業記念碑」というタイトルが記してあるかのように記載していたが、実際には無いので改めた。これは「化学肥料創業記念碑建設会」が設置した碑であると思われ、そこに存在するものが「化学肥料創業記念碑」であるという認識に間違いは無いわけだが、当サイトの「あるものをあるがままに」「真偽はともかく発祥の地と書いてあるか」という趣旨から逸脱するので、見直した。

写真

  • 尊農碑
  • 化学肥料創業記念碑
  • 化学肥料創業記念碑
  • 化学肥料創業記念碑 碑文
  • 釜屋跡
  • 釜屋跡
  • 釜屋跡
  • 釜屋跡
  • 化学肥料創業記念碑 東入口側

碑文

植物ガ栄養トスル肥料ノ成分ハ窒素燐酸加里カ主テアッテ之ヲ三要素ト稱ヘ窒素ハ主トシテ葉ヲ燐酸ハ果實ヲ加里ハ幹根ヲ形成スルモノテアル 肥料ニハ古來動植物質ノ腐熟シタモノヲ多ク用ヰタカ近代科學ノ發達ハ化學的ニ窒素燐酸加里ノ各肥料ヲ多量且ツ廉價ニ生産スルコトニ成功シ是ニ依ッテ農作物等ノ収穫ハ劃期的躍進ヲ見ルニ至ッタ
此ノ處一体ハ實ニ我國化學肥料ノ先驅タル過燐酸石灰製造工業創始ノ地テアル

尊農

先覺澁澤榮一益田孝等ノ諸氏ハ 維新當初ニ於テ 我カ國運ノ躍進ハ必スヤ人口ノ激増ヲ来シ食糧問題ハ實ニ邦家将来ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ農業ノ發達ト肥料ノ合理的施用トニ因リ之カ増収ヲ企圖スヘキ堅キ決意ヲ為シ歐米ニ於ケル化學肥料ノ研鑽者タル髙峰譲吉氏ノ協力ヲ得テ明治二十年初メテ此ノ地ニ東京人造肥料會社ヲ設立シ過燐酸肥料ノ製造ヲ開始セリ是レ我國ニ於ケル化學肥料製造ノ嚆矢ナリ
本事業ハ 官民ノ協力二因リテ漸次進展シ後更ニ空中窒素固定工業ノ勃興スルニ及ヒ農業生産ノ飛躍的増収ニ絶大ナル貢獻ヲ爲スニ至レリ 今ヤ曠古ノ非常時局ニ際會セルモ能ク一億國民ノ食糧ヲ確保シ前線銃後些ノ憂ナキニ至リシハ蓋シ化學肥料ノ発達普及ニ負フモノ多シト謂フヘシ
同社ハ後ニ大日本人造肥料株式會社ト改稱シ此ノ地ハ 釜屋堀工場トナリシモ不幸大正十二年ノ關東大震災ニ壊滅シ爾來二十星霜ノ久シキ寂トシテ之ヲ顧るものなきを遺憾とし茲に關係同志胥謀リ碑ヲ其ノ阯ニ建テテ 由來ヲ刻シ永ク偉績ヲ顕彰スルト共ニ 我國農業ノ興隆ヲ期シ以テ皇國ノ盛運ヲ奉頌ス

昭和十八年十一月

化學肥料創業記念碑建設會

東京都釜屋堀公園

昭和十九年五月開園

本園地タル釜屋堀ノ一帯ハ明治二十年我國科學肥料製造ノ嚆矢タル東京人造肥料會社創業ノ地ニシテ近代農業ノ發達ニ多大ノ寄興セシ由緒アル處ナリ
茲ニ科學肥料事業ニ盡瘁セラルル有志相諮ラレ永ク此地ヲ記念スベク用地二百五十餘坪ヲ本都ニ寄附セラル今ヤ公園施設成リ開園ニ際シテ其由來ヲ刻シ寄贈者ノ芳志ヲ後世ニ傅フ

東京都

釜屋跡

太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六釜七と称し、寛永十七年今の滋賀県から港区にきてほどなくこの付近に住い釜六は明治時代まで釜七は大正時代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られなべかまの日用品をはじめぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した

昭和三十三年十月一日 江東区第十九号

地図

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江東区大島1丁目 付近 [ストリートビュー]