甘藷 澱粉 製造 発祥之地 記念碑

かんしょでんぷんせいぞうはっしょうのちきねんひ

外房線(内房線・京葉線)の蘇我駅の北西1Kmに、稲荷神社がある。神社に入って拝殿左手に「甘藷澱粉製造発祥之地記念碑」と刻まれた大きな石碑が建っている。

甘藷=サツマイモは繁殖力が大変高くやせた土地でも育つため、江戸時代以降飢饉対策として広く栽培されている。もともとは南米原産で、これが東南アジア→中国→沖縄→九州→本州と伝わった外来植物。

日本への伝来は、1604年に野國総管が琉球に苗を持ち帰ったのが最初とされ、琉球全域に広まって住民を飢餓から救った。その後種子島を経て長崎・薩摩での栽培が始まり、享保の大飢饉で西日本が大凶作に見舞われた際にも薩摩・長崎では餓死者がなくサツマイモの有用性が広く知られるようになった。この結果を見て、八代将軍吉宗は関東でもサツマイモの栽培を行うよう青木昆陽に指示した。昆陽は江戸(小石川植物園)、下総(幕張)、上総(九十九里町)で試験栽培を行い、以後サツマイモが関東一円に広がり、飢饉時に多くの人を飢えから救った。

その後、サツマイモはそのまま食糧にする以外に、これを原料として澱粉に加工する技術が開発され、サツマイモの産地である当地で広く行われるようになった。

ちなみに澱粉の原料は多く、現在サツマイモ以外ではトウモロコシ・小麦・米・マメ・ジャガイモ・タピオカなどが利用されている。澱粉は菓子その他の各種食品の原料となるほか、接着剤・医薬品など多種多様の工業製品の原料となっている。

写真

  • 甘藷澱粉製造発祥之地

碑文

甘藷澱粉製造発祥之地記念碑

衆議院議員臼井荘一書

由来之記

青木昆陽先生が幕府の命によって下総国馬加村すなわち現在の千葉市幕張町に甘藷を試作作したのは享保二十年のことである その後百年を経た天保七年に下総国五田保すなわち現在の千葉市稲荷町の地に於て花沢紋十氏が下野の人中里新兵衛氏の指導の下に甘藷澱粉の製造を創めたと記録に伝えている 以来この地を中心に甘藷澱粉の製造は年々盛んになりその製造法は漸次全国に広まって行ったのである 一方澱粉業者の団体は明治年間に創設され以後名称は時代とともに幾度か変改したが第二次大戦後は千葉澱粉工業協同組合に統一されその組合活動は全国に冠たるものがあった 顧みるに甘藷および甘藷澱粉は備荒食糧として過去幾多の食糧危機を救い特に第二次大戦の食料難に際し県,組合は代換配給甘藷の供出によって食料難を打開し食糧政策に多大の功献をなしたがその後の食糧事情の好転につれて昭和四十年代には原料甘藷の作付も全国的に激減し甘藷澱粉製造は衰微の一途をたどることとなり伝統ある千葉澱粉工業協同組合も終に昭和四十六年八月解散した しかして往年の盛業をしのび先人の遺業を思う時感懐まことに切なるものがある ここに旧組合有志相はかり甘藷澱粉創始の地に碑を立て録して先覚の偉業を永世に伝えようとするものである

昭和四十九年二月八日

有志一同

      千葉澱粉工業協同組合  (以下氏名省略)

地図

地図

千葉市中央区稲荷町 稲荷神社 付近