軌道 開通 記念碑

きどうかいつうきねんひ

現在はバス停留所及び車両場所となっている、福島交通 掛田線 掛田駅跡の北東隅に、背の高い石板が建つ。

1908年(明治41年)に開業した信達軌道は延伸を進め、1911年(明治44年)に掛田まで、1915年(大正4年)にはその先の川俣まで蒸気軽便鉄道開通した(鉄道歴史地図)。その後、機関車の火の粉によって沿線が火災で焼失したり、飯坂電車との乗り入れが図られたりして1926年(大正15年)中に電化された(昭和元年は12月25日から)。その後、保原〜桑折こおり間と掛田〜川俣間が1927年(昭和2年)は不採算路線として電化されることなく廃止。

併用軌道の一部では道幅が狭く、単線ながら電車が通過するとなると道路上の自動車は端に避けて待機していたというが、モータリゼーションの波に呑まれ、存続が不可能だったようだ。昭和17年(1942) には現在の いい電(福島交通 飯坂電車)との接続が切り離され、昭和46年(1971) に飯坂電車を除く全線が廃止された。

なお、廃止後もいくつかの駅舎は残っていたが、今では掛田駅跡だけが唯一残っていると言われる。

写真

  • 軌道開通記念碑 背面
  • 軌道開通記念碑

碑文

軌道開通記念碑

掛田町在伊達郡之中央古来占枢要之埊位物産充溢蠶業盛而掛田生絲之名夙暮乎世界然衆山回環以交通不便沮害人文之進歩利源之開発蓋不尠少有志之士概之久矣偶大日本軌道株式會社長雨宮敬次郎■1地方之士欲組織軌道會社以敷設諸信達二郡要衝之地也誘町長大橋佐兵衛而安田常作等企圖其實現明治三十九年十一月十九日請實地蹈査遂使掛田入其敷設圏内町民大歓喜伊達郡長馬場直人亦圖國利民福而賛比計與會社協定明治四十年二月附議里道改脩費以起其工然掛田線以直不著手明治四十一年四月町長菅野賢助諮町會寄附工費壹千二百圓役夫五百人開鑿保原掛田間之里衟切俟其敷設時福嶋湯野間既開通長岡保原梁川間亦相尋通獨掛田線以曲折崎嶇不適敷設荏苒送日於昰大橋伊三郎組織期成同盟會且為臨時町長代理時明治四十二年二月也此年八月佐藤源兵衛就任町長也愛慮不能措熱誠欲■2解決之日夜奔走問之輿論以察民心之歸嚮受佐藤幾之助大内虎之助金谷重郎治等之應援而陳情於郡長且■3交渉會社遂得補助金立軌道再改修之■4畫明治四十三年二月十七日奉齊天神地祇於積雪皚皚之取揚山起工更督役鑿嶄巌夷峻峯隄隰皋擴道路疊石橋川流以勵其工然取揚山之開鑿最難工事而容易不進行故工費益告不足雖當局之苦心町民之勞費益加堅忍不抜之精神與一致協同之努力相俟終始一貫排百難忍萬苦拮据經營閲月十九捐資壹萬五千圓檢其工程新設道路千三百五十閒盛土千三百坪切土二千五百坪點石巌石切取三千坪暗渠四十二所橋梁七所眼鏡橋一所取揚山之開鑿二十七尺長百閒餘道路敷地之買収三町餘歩嗟蕞爾一小町之工事豈容易哉况於町有校舎増築水害復旧之二大工事且桑葉被害財界不振之時哉然終能遂行此工事以寄附之郡明治四十四年四月八日行竣工報賽祭於龜岡神社翌日擧開通祝賀式於茶臼山公園其殷賑實為空前想富彊之大本在開國土殷物産今也取揚山之關門一闢軌道忽易易延長川俣町交通之便運輸之業愈盛而利源斯通國本斯實人心為興起隆昌發展之氣運■5然来思之昨出今収前損後償以有餘豈不楽哉頃依町會決議欲建記念碑■6余文因敍其梗概傳後毘

大正八年四月 榊園  懸田訓平撰竝書

掛田町建立

  1. 「毋」の下に「言」、「謀」の旧字(参考:字源
  2. 「師」のへんに「几」
  3. 「囧」の下に「女」
  4. 「供」の下に「言」
  5. 「艹」に「慰」
  6. 「山」かんむりに「念」、「山」へんに「念」の異体字か?

地図

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掛田駅 付近 [ストリートビュー]