倉紡 発祥の地

くらぼうはっしょうのち

山陽本線 倉敷駅から 南東に1km。倉敷美観地区の一角に, ホテル“倉敷アイビースクェアー”と”倉紡記念館”が並んでいる。この記念館の前に「天領倉敷 代官所跡」刻まれた石碑と, 「この地のいわれ―倉敷代官所跡・ 倉紡発祥の地―」と書かれた説明板が建っている。 碑文にも書かれているように, 倉敷の街は幕府の天領として代官所が置かれ, 物資の集散地として大いに発展した。「大原家」「大橋家」などの豪商の邸宅は今も大切に保存され, 美観地区の代表的な風景となっている。

明治になって 倉敷は一転して混乱状態となったが, 大原家を中心に紡績工場が設立され, 1889(明治22)年に代官所跡に赤レンガの最新の紡績工場が操業, 新たな繁栄へのスタートを切った。

紡績工場跡は 現在アイビースクエアに変身している。

写真

  • 倉紡記念館
  • 倉紡発祥の地 説明板
  • 天領倉敷 代官所跡

碑文

この地のいわれ

──倉敷代官所跡・倉紡発祥の地──

古来この附近一体は「小野が城」または「城の内」と呼ばれ, 戦国時代の砦 の跡といわれる。慶長五年(西暦1600)関が原の合戦で東軍が勝利を得 てから, この地は徳川幕府の直領(天領)となった。
慶長十九年(西暦1614)大阪冬の陣に備中国総代官小堀遠州は幕府の命 をうけ, 兵糧米十数万石を倉敷湊から大阪に積み出すため, ここに屋敷を構 えて陣屋とした。それ以来倉敷湊は急速な発展を遂げ, 寛永十九年(1642) に陣屋は倉敷代官所となり, 初代幕府代官米倉平太夫が赴任してきた。
それより明治維新にいたる二百余年間, 倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世) 讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となった。
天保五年(1834)には代官所北側に倉敷教諭所が建てられ明倫館と名付 けられた。それ以来, この地は文教の中心地となった。
幕末になって尊皇佐幕で天下が物情騒然のとき, 慶応二年(1866)長州 奇兵隊を脱走した一味約百名は, 倉敷代官所および浅尾藩(総社市)を襲撃 し世にいう倉敷浅尾騒動を起こした。このため代官所は灰塵に帰し焼野が原 となった。明治の維新政府は, 代官所跡に倉敷県庁を置いたが, 明治四年倉 敷県が廃止されてからは放置されたままになっていた。その後地元の先覚者 達によって, 明治二十一年三月九日代官所跡に倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社) が創設され, 紡績工場の汽笛が鳴りひびいた。
以来, 倉敷紡績の隆盛は倉敷の発展に寄与するところとなった。
倉敷紡績では, この地が古くより倉敷発展の中心地であるのみならず また, 会社発祥の由緒ある地であることにもかんがみて, 記念保存地区に指定し, この地一帯が長く伝え残されることを希念している。

地図

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倉敷市本町 付近 [ストリートビュー]