松平氏 発跡地

まつだいらしはっせきち

愛知環状鉄道線 新豊田駅から東に12km。国道301号線 松平郷入口バス停から北に5kmほど入ったところに松平東照宮(豊田市松平町赤原13)がある。鳥居の左手に「松平氏発跡地 愛知県」と刻まれた古い背の高い石碑が建っている。

松平郷(豊田市松平)は,後宇多天皇の時代(13世紀 鎌倉時代)に公家の在原信盛が開き,現在の松平東照宮境内に屋敷を構えたとされる。 信盛の子信重は開拓を進め,その後この地を訪れた旅の僧 徳阿弥が 信重の末娘の婿として家を継ぎ 松平親氏ちかうじと称した。これが徳川家の始祖 松平氏の発祥である。

親氏・泰親(2代)・信広(3代)は近隣の村を手中にし,更に岡崎・安城に勢力を広げ 西三河の大半を手中にし,戦国時代の一大勢力となっていった。7代清廉は岡崎に居城を移し,三河一国を支配した。しかし その後松平一族は弱体化し,8代広忠の時に 今川氏・織田氏から攻められ支配圏を縮小。ついに岡崎城は今川義元に奪われた。広忠の子 家康は織田氏の,次いで今川氏の人質となったが,今川氏の滅亡に伴い岡崎城に入り,織田信長の下で勢力を拡大。徳川を名乗った。

松平家は 3代信光の時に 松平宗家(将軍家となる)と 幕末まで松平郷の領主であった松平太郎左衛門家(松平郷松平家)に分かれた。松平郷の地は 江戸幕府により あらためて松平郷松平家に与えられ,家康の死後,駿河から東照宮が勧請され,この地は「松平氏発祥の地」として 徳川幕府からも特別の扱いを受け続けた。


後に、駐車場の表示にも松平氏発祥について言及するようになったようだ。

写真

  • 松平氏遺跡 説明
  • 松平氏発跡地
  • 東照宮鳥居

碑文

松平氏発跡地

愛知縣

国指定史跡
松平氏遺跡

(松平氏館跡・松平城跡・大給城跡・高月院)

松平氏は江戸幕府の創始者である徳川家康の祖で,ここ松平町が発祥の地です。
伝承によれば時宗の遊行僧・徳阿弥が諸国を流浪中,東国から三河の大浜,そして松平郷に入り,土豪在原信重の婿となり松平親氏を名乗り松平城を本拠としたのが始まりといわれています。三代信光の時後の徳川将軍家となる松平宗家と幕末まで松平郷に住した旗本・交代寄合松平太郎左衛門家に分かれました。信光は松平郷から岩津・大給・安城・岡崎城へ侵攻し西三河一帯に進出,一族発展の基礎を築き,松平氏九代目家康が徳川に改姓して天下統一を果しました。家康の死後,太郎左衛門家九代尚栄の時に東照宮が駿河から当地に勧請され,「ご称号の地」として松平郷は幕府から敬われてきました。
平成六年,松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし,「松平城跡」,「大給城跡」,「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の状況をよく伝えていることから,一括して松平氏遺蹟として国の指定史跡となりました。
「松平氏館跡」(現松平東照宮)は,三時期の歴史的な段階がありました。初めは,親氏の居館としての松平氏館,つぎに松平信光以後,宗家と分かれた旗本松平太郎左衛門の居館,そして,居館廃絶後,今日みるような元和年間に勧請されていた東照宮を前面に祭祀した松平東照宮の段階です。境内には「産湯の井戸」と呼ばれる井戸があります。松平家では三代松平信光が当館で出生した際,この清水を用いたことから松平家代々の「産湯の祝泉」となったといわれています。天文十一年(1542)に家康が岡崎城で誕生した際には竹筒につめて早馬で届けたといわれています。また,館跡正面から西側に巡る水堀の石垣は江戸時代初期に整備されたといわれます。

平成八年三月

豊田市教育委員会

地図

地図

豊田市松平町 付近 [ストリートビュー]