民間飛行場 発祥地

みんかんひこうじょうはっしょうち

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撮影:
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八日市文化芸術会館(東近江市青葉町1-50)前にモニュメントと共にプレートが貼り付けられ説明板が設置されている。

写真


碑文

大正四年

民間飛行場発祥地

八日市市

八日市飛行場の沿革

大正三年十月二十二日、当時、フランスで『万国飛行免状』を取得した愛知郡秦荘町出身の荻田常三郎氏が、フランスからモラーヌ・ソルニエーと呼ぶ飛行機を持ち帰り郷土訪問飛行を敢行、故郷に錦を飾ったその時、飛行場として使用したのが古くから大凧揚げの場として知られていた冲之原であった。
飛行に大成功した後の祝賀会で、荻田氏は『冲之原は飛行場として、地質も気象条件も最適である』と言明し、将来は飛行士を養成する『飛行学校の設立を期している』旨の決意を述べた。
これを契機に、当時の横畑耕夫八日市町長を委員長とし、篤志家・熊本九兵衛氏の協力の下に、町会議員全員で『八日市飛行場設立委員会』を組織、直ちに八日市飛行場の実現に向けての行動を始めた。
その後、名称を『滋賀県八日市飛行場期成同盟会』と改め、総事業費三万円の大半を篤志に求めて、大正四年四月十九日、冲之原において地鎮祭を挙行、八日市飛行場造成工事に着手した。今から七十八年前のことである。
同年六月末には早くも四万三千坪(約十四ヘクタール)の飛行場が完成し、これがわが国民間飛行場の草分けとなった。同時にこの位置(修交館・後に公会堂となった)に『翦風飛行学校』が創設された
八日市飛行場が完成すると、チャールズ・ナイルス・アート・スミス・フランク・チャンピオン等、著名な外国人飛行家が八日市を訪れ、飛行技術の妙技を披露した。また大正五年には中華民国の革命家、孫文の依頼で中国の青年義勇飛行士の養成調練が行われ、八日市飛行場は一躍国際的な名声を博するに至った。さらに大正十年には、飛行場を拡張、陸軍飛行場として寄付採納され、岐阜県各務原の陸軍航空第三大隊が移駐し同隊は間もなく飛行第三聯隊に昇格した。その後も飛行場は拡張を重ね、昭和二十年には、その規模も実に五十万坪百七十ヘクタール)兵員三千名を超える大航空基地となったが、同年八月、終戦によって総てが消え去った。
然しながら、この飛行場建設に際しては、当時の小学生が一人二十銭、県立中学生が五十銭、大人が一円(当時の一円は、今の三千百二十九円程度・滋賀銀行調べ・米相場から)と文字通り当時の八日市町民を挙げての浄財の篤志と、募金活動の先頭にたった先覚者たちの進取性と実行力に、限りない敬意と感謝の念を禁じ得ない。そしてその偉業が今、ふるさと八日市を、わが国の『民間飛行場発祥の地』とした誇り高い歴史を永遠に伝えると共に、飛行場建設に際して献身的な努力と、多額の浄財を寄せた先人の遺徳を偲び、謹んでこの記念碑を建立する。

平成四年八月吉日

八日市市長 望田宇三郎
八日市市観光協会長 久保謹吾

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東近江市青葉町 付近 [ストリートビュー]