二十六聖人 発祥之地

にじゅうろくせいじんはっしょうのち

四条通りから 岩上通り(堀川通りの一筋西)を 南に入り, 1ブロック先の 綾小路通りとの 交差点に「妙満寺跡 二十六聖人発祥之地」と刻まれた石標が建っている。

妙満寺は 法華宗の総本山で. 16世紀にこの地にあったが, 豊臣秀吉により 寺町二条に移転した。 (現在は 左京区岩倉幡枝町)

フランシスコ会バプチスタ神父は, 秀吉より 広大な妙満寺跡地を与えられ, 南蛮寺(=キリスト教会)を建てて ここを本拠に キリスト教の布教活動を行った。 また 西洋式の病院や修道院などを建てた。

その後 キリシタン禁令により追われ、慶長2年(1597) にバプティスタ神父他17名が この教会で捕らえられ, 他の地域で捕らえられた者を含めて 長崎に送られて処刑された。外国人宣教師6人と 12歳の少年を含む日本人20名であった。後に 彼ら26名は ローマ教皇により“聖人”に列せられた。 長崎の西坂には「日本二十六聖人の殉教碑」がある。

この標石から 100mほど北に 「フランシスコの家」という建物があり(安全上の理由で平成24年(2012) 閉館、平成26年(2014) 取り壊し), 「日本カトリック教会 信仰の初穂 二十六聖殉教者 発祥の地」と書かれ, また 下記の案内札が立てられている。

日本最初の殉教者26聖人ゆかりの地
南蛮寺跡(フランシスコ会教会跡)とダイウス町

 この付近一帯は切支丹時代にフランシスコ会の南蛮寺 (教会)病院・修道院・学校があった所です。また周囲には 多くの信者が住み, 都の人々からは, この所をダイウス町と呼 ばれていました。ダイウスとはラテン語のデウス(神)からき た言葉で, デウスを信じる人びとの町から, こう呼ばれていました。
 文禄2年(1593年)フィリピン総督の使節として来日 したフランシスコ会士ペトロ・バプチスタ神父は, 太閤秀吉よりこの付近一帯(妙満寺跡)に, 教会・修道院などを建てる広大な土地を与えられました。翌文禄3年(1594年)8月に 教会・修道院・学校と聖アンナと聖ヨゼフに捧げられたニつの京 都最初の西洋式病院が完成し, ここに多くの貧しい人びとや見捨てられた病人, 子供を収容しました。
 文禄5年(1596年)秀吉はキリシタン迫害を始め京都 大阪に住む宣教師や信徒を捕らえました。ペトロ・バプチスタ 神父以下5名のフランシスコ会士パウロ鈴木, レオ鳥丸ほか 12名の日本人信者がこの南蛮寺で捕らえられました。慶長元 年(1597)1月3日大阪で捕らえられた2名を加え, 2月5日 長崎西坂の丘で十字架にかけられて殉教しました。これが日本最初の殉教者「日本二十六聖殉教者」として知られています。

写真

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碑文

妙満寺跡 二十六聖人発祥之地

一九七九年七月

地図

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下京区岩上通 付近 [ストリートビュー]