日本 三名泉 発祥之地

にっぽんさんめいせんはっしょうのち

高山本線 下呂駅の北東300mあまりの所に、銭湯 白鳥の湯(下呂市湯之島856-1)があり、その入口に向かって右側に大きな石碑が建つ。

三名泉とは、下呂温泉(岐阜)・草津温泉(群馬)・有馬温泉(兵庫)を指す。室町時代の詩僧 万里集九の詩文集「梅花無尽蔵」にあることから、江戸時代初期の朱子学派儒学者 (はやし)羅山(らざん)もそれに倣い、有馬温泉にて作った詩文集に書き記したもの。

なお、現代では日本に3000余の温泉があるという。

写真

  • 日本三名泉発祥之地
  • 日本三名泉発祥之地
  • 温湯聯句序 碑文
  • 温泉で行った聯句の序文 碑文
  • 温湯聯句序碑 側背面
  • 日本三名泉発祥之地 側背面

碑文

日本三名泉
 発祥の地

溫湯聯句序

昔甘庶氏住世之時。空生監浴室之衣服跋陀了。浴場之水因故。諸精舎浴室之中掛一牌。或畫空生。或畫跋陀。至開浴之日。香華荘巌。千今存其規也。若論散聖。則佛圖澄自洗其腸。寳誌沐小瓶之中。各依浴以表權實也。凡山川之盛氣。鬱屈而不漏泄。則湧地中而爲熱湯。浴之者百痾必消除。苕渓漁隠纂 數十處之溫湯品論焉。本邦六十餘州。毎州有靈場。其最者下野之草津。々陽之有馬。飛州之湯島。三處也。延徳龍集辛亥仲秋如意日。春澤野雲翁赴飛之湯泉。東西序之。相從者二十餘員。於洛中桃梅某及二三之緇侶。以溫湯爲題。而聯者五十韻。塊規視空生跋陀化儀之至高。盃觀佛圖澄寳誌游戯之至深。別是一段之風流而已

温泉で行った聯句の序文

昔、釈尊がまだ生きて居られた時代には、空生が浴室之衣服を監視し、跋陀が浴場の水を監視した。そのため、諸寺の浴室の中では、一枚の板の絵を掛け、或るものには空生を描き、或るものには跋陀を描いた。そして風呂を湧かした日には、香や花を美々しく飾った。その定めは今に至るまで存している。もし一般の僧侶について論じるならば、梁の高僧、仏図澄は自ら自分の腸を洗ったといい、また梁の宝誌は、小さな瓶の中に坐るという神異を現じて見せたというが、それは、それぞれ入浴によってその不変の真実の姿と、仮の姿とを現わし示したもので或る。
さて、山川のもつ盛んな気は、大地の中に曲がりくねって、他に漏れることなく存しているが、それが地中から湧き出して熱湯となる。この湯を浴びる者は、多くのなおり難い病気も必ず消えてなくなる。
宋の胡仔、苕渓漁隠は、数十か処の温泉を集めて、一つ一つ論評している。我国の六十洲では、各国に温泉があるが、その中でも最もすぐれているのは下野国の草津、摂津国の有馬、飛騨国の湯島の三ヶ所である。
延徳三年辛亥の八月如意の日に、春沢軒の梅心翁と、利渉守湊、野雲翁が飛驒の温泉に出かけました。寺の東序、西序に属する僧でお供する者が二十数名もおりました。そして入浴中に、私や二・三の僧侶をうまく誘って「温湯」を題にして聯句、五十韻をつらねました。入浴に於ける空生や跋陀の、教化の儀式の再校の法式を軽視してしまい、また、仏図澄や宝誌の、深い意味をもった遊戯の神異をも、酔った目で眺めるような有様でした。
(入浴の本義をそっちのけで、聯句にふけってしまった。)しかし、これはこれでまた一般の風流なことでした。
万里集九は、滋賀県安曇の人で俗姓は速見と云う。正長元年(一四二八)九月九日に生まれる。十六才の年京都五山の相国寺、大圭宋价の門に入る。室町末期の臨済宗一山派の禅僧である。
五山文芸の後期に活躍し、漢詩文集「梅花無盡蔵」を残す。応仁の乱で美濃鵜沼に逃れ、太田道灌の招きで江戸城を訪ねるなどしたが帰省后、延徳三年(一四九二)八月禅僧二十数名と下呂温泉に遊び「温湯聯句序」を詠じて日本三名泉を名付ける。

市木武雄著 梅花無盡蔵より

地図

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下呂市湯之島 付近 [ストリートビュー]