農民一揆 発祥の地

のうみんいっきはっしょうのち

東北本線 福島駅から北東1Kmに日枝神社がある。神社の社殿右奥に「農民一揆発祥の地と義民中村治右衛門」と書かれた高さ2m程の石碑が建っている。

日枝神社は“宮代山王社”とも称され、信達しんたつ(=信夫(しのぶ)伊達(だて))2郡の農民から信仰されていた。江戸時代中期に“信達大一揆”と呼ばれる農民一揆が発生した際には、近隣の村々の代表100人余がこの神社に集まり、年貢減免などを求める強訴を取り決めた場所であった。

寛延2年(1749) の一揆のいきさつは碑文に書かれているが、強訴の結果年貢増税の中止を勝ち取ったものの、反面事件後の取り調べは苛酷をきわめ、最終的に百姓総代 である齋藤彦内・蓬田半左衛門・猪狩源七の3人が首謀者とされて斬首・さらし首にされた。後にこの3人は“義民”として“寛延義民顕彰碑”が建立された が、もう一人の主唱者であった中村治右衛門が義民に加えられていないので、これを顕彰しこの神社が一揆の出発点であったことを記念するためのこの発祥碑が建てられた。

この事件のいきさつは、明治末に“信達大一揆物語”として朝日新聞に連載され、映画化もされたことで有名になった。

なお、この地は「農民一揆発祥の地」となっているが、農民一揆はこれ以前から全国各地で発生しており、この地が“全国で初めて一揆が起きた”というわけではない。「農民一揆発生の地」と呼ぶのが適当であるかのようにも感じられる。

(寛延義民顕彰碑については、興味のある方は資料がいろいろあるようですのでご覧ください)

写真

  • 農民一揆発祥の地
  • 農民一揆発祥の地
  • 農民一揆発祥の地
  • 農民一揆発祥の地

碑文

農民一揆発祥の地 と 義民中村治右衛門

江戸時代の半ば寛延二年(1749年)天候不順により大凶作になったのにもかかわらず信達を支配する幕領桑折の悪代官神山三郎左衛門は過重な年貢の増税を言いわたした。農民は困窮を極めたので、有名な天狗回状を回覧し、信達六十八か村百余人の百姓代が宮代山王社に参集した。

伊達長岡の斉藤彦内が先導し、山王権現のお告げであることを宣言し一揆を起こして減免を強訴することを協議一決した。日本で最大規模の百姓一揆と言われている。

伊達長岡の斉藤彦内、鎌田の猪狩源七、伊達崎の蓬田半左衛門、宮代の中村治右衛門らを先頭に総勢一万七千人の農民が総決起し、桑折代官所へ押し寄せ強訴し年貢増税を中止させた。

その後代官所側の吟味は厳しく彦内、源七、半左衛門は死罪として処刑、治右衛門は追放となった。犠牲となって多くの農民を救ったので死罪となった三人は義民として広く世に顕彰されたが我が地の中村治右衛門も主導者の一人であったので其の功績を讃えて顕彰し後世に伝えるものである。

            顕彰碑発起人会

地図

地図

福島市宮代鍛治畑 付近 [ストリートビュー]