島津家 発祥之地

しまづけはっしょうのち

日豊本線の都城みやこのじょう駅から 東に2.5km。早水公園の北東端から100mほどのの住宅地の中に広場があり, “祝吉御所いわよしごしょ跡”碑と“島津家発祥之地”碑が並んで建っている。

都城には,平安時代末期に荘園としての“島津庄”が開発された。 鎌倉時代になって源頼朝が全国に守護・地頭を置き,この地の地頭職に任じられた惟宗これむねの忠久ただひさが 荘園の名前である「島津」を名乗った。これが島津氏の始まりである。後に薩摩の出水に城を築き拠点を移し,都城では北郷氏(都城島津氏)が “都之城”を築いて国分・内之浦を含む広大な領域を支配した。

今年 平成20年(2008)の大河ドラマ「篤姫」で,鹿児島県出水市が「島津家発祥の地」と紹介されたことに対して, 都城市が異議を唱え論争があった。出水市は 初代・忠久が都城から移って城を置き,島津家の基礎を築いた場所であり,市内の感応寺には初代以下5代までの墓が置かれている。その後、放送局は,都城市は島津姓の発祥の地であり,出水市は 島津氏の実質的な支配の始まりの地である, という説明をして落着したようである。

なお,都城市は「ウエルネス都城」というキャッチフレーズで まちづくり運動を推進しているようで, 町中のあちこちに「ウエルネス都城」の文字が見られる。地元のライオンズクラブが掲出した大看板には,「湧水と島津発祥の地」と書かれている。「島津の発祥」はわかるが,「湧水」とは何だろうか。 祝吉御所跡近くの早水公園には「髪長姫の泉水」と呼ばれる湧水池があって, 日量8,000㎥という豊富な水が湧き出ている。髪長姫は,後に仁徳天皇の妃になったと言われる女性で,この地で生誕したという伝承があるという。 おそらく この湧水のことを指していると思われるが,詳しい事情は不明である。

写真

  • 島津家発祥之地 碑文
  • ウエルネス都城
  • 島津家発祥之地
  • 岩吉御所跡 説明
  • 島津家発祥之地

碑文

島津家発祥之地

都城市長 有田秀秋書

碑文

 源 頼朝の御家人惟宗忠久は 後鳥羽天皇文治元年(西暦一一八五)頼朝より日向国(島津院 三俣院 財部郷 北郷 中郷 南郷)大隅国薩摩国等 綜合する島津庄下司職に任ぜられた 更に忠久は上御門天皇建久七年(西暦一一九六)征夷大将軍 頼朝より日薩隅三州の守護職に任ぜられたので 薩摩国山門院を経て建久八年(西暦一一九七)島津庄政所に着任し律令政治下の中心地であった島津院のこの地に居館を定め祝吉御所と稱し 政治文化発展の藩礎を築き ここで島津の姓を名乗り島津 家の始祖となった。
 よって この地に居館門柱の跡と云い伝える塚四基 及び 延喜式時代駅の一つである島津駅の跡とされる馬頭観音の碑一基を蒐め 島津家発祥の地として残さんとするものである

源頼朝の御家人惟宗忠久は 後鳥羽天皇文治元年(西暦一一八五)頼朝より日向国(島津院 三俣院 財部郷 北郷 中郷 南郷)大隅国薩摩国綜合する島津庄下司職に任ぜられた 更に忠久は 上御門天皇建久七年(西暦一一九六)征夷大将軍源頼朝より日薩隅三州の守護職に任ぜられたので 薩摩国山門院を経て建久八年(西暦一一九七)島津庄政所に着任し 律令政治下の中心地であった島津院のこの地に居館を定め 祝吉御所と稱し 政治文化発展の藩礎を築き ここで島津の姓を名乗り島津家の始祖となった。
 よって この地に居館門柱の跡と云い伝える塚四基及び延喜式時代駅の一つである島津駅の跡とされる馬頭観音の碑一基を蒐め 島津家発祥の地として残さんとするものである

昭和四十三年十月吉日(明治百年)

都城市議会議長 柳田盛彦

県指定史跡 祝吉いわよし御所ごしょあと

指定年月日 昭和九年四月十九日

 ここは,島津しまづ氏の始祖忠久ただひさが鎌倉より下向して,御所(館)を構えた所と伝えられる。当地は,古代・中世にお いて「島津」と呼称され,全国有数の荘園として知られる島津御荘みしょうの中心であった。
 忠久は文治元年(1185)八月,源頼朝によって,領家の島津御荘下司職げすしき,ついで同荘八千町の惣地頭職そうじとうしき,薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護に任 ぜられるなど,その勢力のほどがうかがわれる。忠久は,はじめ惟宗これむね姓を名乗ったが,地名をとって姓を「島津」と称した。
 また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ,島津家代々の崇敬の厚い神社であった。
 島津氏は武家の名門であり,中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
 その名(苗)字がここに由来するのである。

平成六年二月

都城市教育委員会

地図

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