昌益思想 発祥の地

しょうえきしそうはっしょうのち

八戸線 本八戸駅から南に1km。国道340号から150mほど南に浄土宗 天聖寺がある。本堂の近くに「昌益思想発祥の地」と書かれた石碑と説明板が建っている。

安藤昌益は江戸時代中期の医師。武士が元禄16年(1703) に秋田県に生まれ、京都で仏門に入ったが、仏教の教えと現状に疑問を持ち、医師としての修行を行った。1744(延享元)年、42歳で八戸に移住して開業。その年に八戸の天聖寺にて数日にわたり講演を行い、十数年間の八戸在住の間に門弟達と交流を重ねた。

昌益の生涯は、そのほとんどの部分が不明のままであり、史料として明確に裏付けられているのはごく僅かである。その他の経歴はこれらの史料や著作物・書簡の断片などに記された年月などの断片的なものから推定されたもので、謎の多い人物である。

戦後在日カナダ大使館に勤務するハーバート・ノーマンの手により『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』が著され、世界的に知られることとなった。(ちなみにノーマンは日本生まれで、日本語が堪能で日本史を深く研究していた。)

昌益は身分階級差別を否定してすべての者が労働に携わるべきであると主張し、徹底した平等主義を唱えた。その内容は共産主義や農業エコロジーに通じるものがあるといわれる。このような反体制的ともいえる思想は、当時の体制側から迫害を受けることはなかったのだろうか。

写真

  • 昌益思想発祥の地
  • 昌益思想発祥の地 説明

碑文

昌益思想発祥の地

天聖寺

昌益思想発祥の地

 浄土宗法海山天聖寺の歴史は八戸町の誕生とともに始まる。八戸の町地がほぼ形成されたのは、江戸時代の初頭、承応年間(1652~1654)のことであるが、このとき八戸の人々の信仰の拠り所として町の中心部のこの地に建立されたのが当寺である。所伝によると、往時は、根城にあり、涼雲山善道寺と称し、のち現在地に移転して天聖寺を名乗ったという。

 寛文四年(1664)八戸藩が誕生すると、領内「近回り五か寺」の一つに数えられ、燈明料五駄が与えられた。元禄年間(1688~1703)には、鐘楼などの諸堂が整備され、城下の町寺として極楽往生を願う人びとの厚い崇敬を集めた。

 寛保三年(1743)、当寺八世則誉守西は「糠部三十三観音巡礼」を定めて、信仰の徳を説いた。

 武士が農民を支配する封建社会を激しく批判した思想家として名高い安藤昌益は、ここ天聖寺においてその思想を初めて八戸の人々に語った。

 延享元年(1744)十二月、八戸にやって来た昌益はここで数日にわたる講演を行った。参会者は則誉守西、当寺九世延誉檐阿を始め、藩士、藩医、神官、僧侶、商人など八戸の主だった知識人たちであった。彼らは昌益の話に深い感銘を受け、「大医元公昌益、道の広きことは天外にもなお聞こえん、徳の深きことを顧みれば地徳もなお浅し」と賛辞を贈った。昌益四十二歳のときである。

 その後、当寺には岡本高茂や神山仙庵、高橋大和守などの壇徒、さらに中居伊勢守、中村忠平、関立竹、上田祐専などといった昌益の門弟が集まり、談論風発して親交を深めた。

 やがて、寛延二年(1749)の猪飢渇いのしししげかじから始まる飢饉の頻発は昌益を社会批判に向かわせた。昌益は『統道真伝』や『自然真営道』を執筆しながら、すべてのものが「直耕」する平等な社会とは何か、そこにおいて最も人間らしい生き方とはどのようなものか、さらに人間と自然とはどのように相互依存して共生できるかなどを追い求め、「自然の世」という理想社会の実現をめざした。

 宝暦八年(1758)頃、全国の門人が集まり、シンポジュウムが開かれた。場所は恐らくこの八戸、想像すると天聖寺と思われる。

 これに参加した門人は、八戸は神山仙確、福田定幸、北田静可、高橋栄沢、中村信風、嶋盛慈風の六人、他は松前の葛原堅衛、須賀川の渡辺湛香、江戸の村井中香、京都の明石龍映・有来静香、大阪の志津貞中・森映確の七人である。

 昌益は八戸に来てから確龍堂良中と号するが、昌益の「りょう」が八戸の地で到達した最終的思想を門弟に「」べ、これを門弟の「てつ」たちが「ろん」ずるという形で討論が進められた。

この討論は確門第一の高弟といわれた仙確の手により稿本「自然真営道」巻二十五に「良演哲論」として編さんされた。仙確とは昌益の号にちなんで名づけられた仙庵の号名である。

 昌益はこのシンポジュウムを最後に、十五年にわたって過ごした八戸の地を旅立ち、故郷の大館の二井田へ向かった。

 このように天聖寺は昌益の八戸在住時代に門弟たちと交流を重ねた場所であり、昌益思想を独創的に深化発展させる上で大きな役割を果たしたところである。

 紛れもなく昌益思想はこの地より発祥したものといえよう。

地図

地図

八戸市十六日町 付近