醤油 発祥地

しょうゆはっしょうち

紀勢本線 湯浅駅から北西に700m。山田川沿いの“北町通り”には昔ながらの醤油蔵が立ち並び,その中心部に老舗の醤油メーカー“角長かどちょう”がある。大仙掘に面する醸造場には「角長・醤油発祥地」の袖看板がでている。また醸造場の南に並ぶ“角長醤油職人蔵”と“角長醤油資料館”には それぞれ「醤油の発祥」「湯浅醤油の起源」という説明板が掲示されている。

醤油とは“ひしお”を搾った汁という意味である。“醤”はすでに平安時代から使用されていた。

鎌倉時代に紀州の禅寺興国寺の開祖“法灯国師”が,中国から伝えた嘗味噌(経山寺味噌=現在は“金山寺味噌”と呼ばれる)がその母体とされる。嘗味噌の中の瓜・茄子などの野菜から出る水分が美味であることに着目し,その汁を利用した“新しい醤”が醤油の始まりとされる。

湯浅の地は熊野路の入口にあたり港も発達し,また良質の水にも恵まれたため,興国寺の醤油はこの地に定着し,自家用以外に商品として製造された。16世紀中ごろには大坂などに出荷され,江戸時代には 紀州藩の特別な保護もあって,90軒を超える醸造家が現れ“湯浅醤油”の名声は不動のものとなった。

その後 醤油醸造の技術は,野田(千葉県)・銚子(千葉県)や小豆島(兵庫県)などに伝わり,やがて大手メーカーによる大量生産の技術が開発されると,伝統的な手作り醤油の湯浅醤油はシェアを大きく奪われて衰退し,現在は醸造家の数は非常に少なくなっている。伝統的な製法で醸造しているのは “角長”一軒のみであるという。

湯浅町が“醤油発祥”に懸ける意気込みは相当なもので,JR湯浅駅のホームに立つと「醤油発祥の地」と書かれた名所案内看板が迎えてくれ,ホームの待合室や階段の上には いくつもの「醤油発祥の地」の看板が出ている。

北町通りを中心とするエリアは 国の“重要伝統的建造物群保存地区”に指定されていて,全体が古い“醸造町”の落ち着いた雰囲気を残している。

平成29年(2017)4月には、日本遺産として登録された。

写真

  • 醤油の発祥(資料館内)
  • 醤油発祥の地 湯浅
  • 醤油発祥の地 湯浅
  • 醤油発祥の地 湯浅
  • しょうゆ発祥の地 湯浅
  • 湯浅醤油の起源
  • 醤油発祥地 角長
  • 醤油発祥地 角長

碑文

醤油発祥地

醤油の発祥

紀州由良から湯浅への熊野路は,醤油の道である

13世紀半ば,由良興国寺の開山覚心(法灯国師)は,中国,宋の時代に勉学する事10年,帰朝の節に径山寺味噌-金山寺-の製法をわが国に伝え,当時,湯浅の水質の宜しきを得て研究の結果,味噌の溜まり水から今日の醤油を発明したと言われている

その後,銚子,小豆島など日本各地に海路から製法を伝え,江戸時代には,御三家の紀州候の手厚い保護を得て,最盛時には100軒に及ぶ醸造家が湯浅 近辺で,醤油製造に従事したと伝えられている

昨今は,種々の事情に恵まれず,真の醸造家はまさに,貧者の一燈ならんとしているが,当家はそのルーツを守るを家訓として,また,湯浅の名前を不滅の栄光の町たらんと精励する所存です

角長 当主敬白

湯浅醤油の起源

法燈国師(1207-1299)は長野県の生まれで,建長元年(1249)四十三才で中国宋に渡り,帰国後由良(日高郡由良町)に禅寺を開いた。そして中国の金山寺味噌の製法を伝えた。この桶底に溜まった液,上澄みの液が美味であることに着目して醤油が生まれた。

湯浅が醤油発祥の地となったのは,由良に近く,又 山田川水系の良質の水がその製造に適したからであることは勿論であるが,今一つ覚性尼の存在がある。

国師は母(妙智尼)を思う孝心の強い人であった。国師不在中 そのお世話をした人にお生と立子があった。お生は後,国師に依って得度し,覚性尼となった。この人こそ湯浅の出身であり,国師じきじき手をとって調味料製造を伝授した事が,湯浅醤油発祥に大きい影響を与えた様である。

安土桃山時代,今から四〇〇年余前醤油が商品化されたのも湯浅であり,以来徳川御三家の一つの紀州候の手厚い保護によって発展し,湯浅の醤油醸造家は盛事には一〇〇軒近くあったという。

明治以後種々の原因で漸次衰え,今日に至っている。然し七〇〇余年前の醤油は今や世界の調味料となって珍重されている。

地図

地図

湯浅町大字湯浅 付近 [ストリートビュー]