国民健康保険 発祥地の由来

こくみんけんこうほけんはっしょうちのゆらい

陸羽西線の古口ふるくち駅から南に5Km。戸沢村角川集落にある“農村環境改善センター”の玄関右手に「相扶共済」と刻まれた大きな石碑と「国民健康保険発祥地の由来」という副碑が建っている。

「相扶共済」の碑は昭和33年(1958) に、国民健康保険法の設立後全国で最初に認可された“角川村健康保険組合”の20周年を記念して建立された。当初は旧角川村役場前にあったが、1930(昭和59)年に 現在地に移設されたという。

経済力のない僻地の無医村だった旧角川村は、病気になっても医療を受けられない状態から脱却するため村営診療所を作り、その費用捻出のため“角川村保健組合”を設立した。村民は所得に応じて最低20銭から最高4円の保険料を毎月支払い、代わりに診察代は2割、薬代は5割の負担で安心して医療サービスを受けられる制度であった。
保健組合は全国で6ヶ所に作られ、医療施設設置のモデル事業として注目され、昭和17年(1942) 制定の国民健康保険法に引き継がれた。角川村保健組合は全国最初の国民健康保険組合として認可された。

戸沢村に入るとあちこちに“国保発祥の地”の看板が建っている。最上川船下りの乗船場入口と、古口駅から国道を1kmほど西に進んだ国道47号と県道57号の交差点でそれぞれ見かけたもので、さらに相扶共済碑のある農村環境改善センター入口にも同じ看板があった。

写真

  • 国民健康保険発祥地
  • 相扶共済
  • 国民健康保険発祥地
  • 相扶共済 背面
  • 最上川船下りの乗船場入口[写真A]
  • 国道47号と県道57号の交差点[写真B]

碑文

国民健康保険発祥地の由来

 昭和初期の農村は,相次ぐ凶作と農産物価格の極端な下落に悩まされ,人々の生活を極度に苦しめた暗い谷間の時代であった。
 当時の旧角川村は交通の便に恵まれず安住する医者もいなく,村人は病気になっても交通の不便さと家計の貧困で医者に看てもらうことができないとの現実に 陥り,この窮地を脱するため国・県の指導の基に「村営診療所」を設立するため,村人を組合員とする保険組合の結成を計画,並々ならむ苦労努力の結果として 実現に成功した。
 保険組合の発足は昭和十一年四月であり,昭和十三年に国が初めて公布施行した「国民健康保険法」に先だつ輝かしい出来事であり,国保組合設立許可は全国第一号の栄誉を担ったことが,現在の「国保発祥の地」の由縁と言える。

相扶共済

厚生大臣 堀米謙三書

 碑文

この地山形県最上郡戸沢村大字角川,旧角川村は僻地で交通の便も悪く医師のいない村として民生の上にまことに困難を感じた村の人達がその対策としてできたのは角川村保険組合で昭和十一年四月から発足した,昭和十三年七月国民健康保険法が施行されるまでになったので同年八月国 民健康保険組合と改め設立認可第一号を以て全国市町村にさきがけし,国保本来の使命である相扶共済の精神を旨として実践現在に至ったものである

時代は進み社会保障の制度は著しい進展をみせ特に国保の拡充愈々重大性を帯い 幸福は先つ健康からの感を深くするものである

本年は創設以来二十周年を迎え発祥の地に記念の碑を建てこれを後世に伝える

    昭和三十三年六月十七日 建之

功労者
角川村長 早坂郡次郎
角川村助役 田邉多右エ門
角川村医師 真下元雄
角川村書記 斎藤勇
建設者
山形県■■■■■■国保連合会理事長 齋藤弥助
協力者
山形県知事 安孫子藤吉

(以下 碑の下部(人名)が読み取れず 省略)

地図

地図

戸沢村大字角川 付近 [ストリートビュー]