東京工業大学発祥の地

とうきょうこうぎょうだいがくはっしょうのち

地下鉄 浅草線・大江戸線 蔵前駅から250m南東に,東京都下水道局の北部第一下水道事務所(蔵前ポンプ所)がある。この南東脇にある駐車場の入口近くの片隅に「東京工業大学発祥の地」と書かれたパネルが設置されている。

東京工業大学は,明治14年(1881) に「東京職工学校」として開設され, 明治23年(1890) に「東京工業学校」, 明治34年(1901) には「東京高等工業学校」と改称した。大正12年(1923) の関東大震災により施設の大半を失なったため目黒区大岡山に移転。昭和4年(1929) に現在の「東京工業大学」となった。

蔵前時代の東京高等工業学校の敷地は, およそ1万坪あったと考えられ, 現在の地図にあてはめると, 榊神社・浅草中学校などを含む隅田川の西側一帯をカバーしていた。発祥の地のパネルには 現在の地図に明治末の敷地を示す図面が添えられていて, 広大な敷地が見て取れる。

この発祥碑のある蔵前2丁目(旧南元町)は,東京高等工業学校のメインの敷地から離れた飛地となっていて,面積も800坪弱と狭いものだが,東京工業大学が目黒区に移転した後も東工大の所有となっていて,東工大のボート部の艇庫が置かれ 活動の拠点となっていた。そのような歴史を考えると,この地は旧 東京高等工業学校の付属地だった場所であり,東京工業大学の発祥の地というには 少々無理があるような気がする。

一方,旧東京工業高等学校のメインの敷地(蔵前1丁目)の方には「工業教育発祥の地」の碑が建っていて,こちらこそ「東工大の発祥の地」と呼ぶにふさわしいように思われる。これら2種類の碑ができたのは どういう背景があったのだろうか。


平成22年(2010) 版もかなり怪しいが、令和元年(2019) に訪問したところ褪色が進行し、赤色だったと思しきところは完全に褪色しており、せっかくの図はまったく役立たずとなっていた。

写真

  • 東京工業大学発祥の地
  • 東京工業大学発祥の地 地図
  • 東京工業大学発祥の地
  • 東京工業大学発祥の地 (2019)
  • 東京工業大学発祥の地 (2019)
  • 東京工業大学発祥の地 (2019)
  • 東京工業大学発祥の地 碑文(2019)
  • 東京工業大学発祥の地 (2019)

碑文

東京工業大学発祥の地

 この辺り蔵前の地,旧浅草御蔵の跡には,今日の東京工業大学の前身である官立の東京職工学校(のち東京工業学校,東京高等工業学校と改称)の校舎及び東京工業大学の艇庫・宿舎等があった。
 東京職工学校は,明治14(1881)年5月26日に創設され,同15年6月10日文部省より浅草区蔵前東片町29番地の地所並びに浅草文庫の建屋を交付され,校舎新築の工事を起こした。その後,明治23年3月24日東京工業学校,明治34年5月10日東京高等工業学校と改称され,敷地も南元町38番地の土地を加え,校舎も鳥越川から六番堀まで及んだ(現柳橋2丁目から蔵前1丁目に及ぶ地域:右下図参照.榊神社の場所に,学校の表門があった.境内に石碑「蔵前工業学園の蹟」などがある).学校は充実・発展し,大正12(1923)年春には,衆議院・貴族院で大学への昇格が決定した。しかし,その秋の9月1日関東大震災により灰塵に帰し,学校当局は当地での再建を断念し,市外荏原郡大岡山に移転,昭和4(1929)年4月1日東京工業大学の設置が正式に決まり,今日に及んでいる。
 蔵前の飛び地,元蔵前2丁目1番45号の当地(旧浅草南元町,のち浅草蔵前2丁目12の11)約773坪は,その後も蔵前艇庫(昭和29年落成)等に使用され,伝統ある東京工業大学端艇部活躍の拠点となってきた。しかし昭和50年3月25日,東京都下水道局との土地交換が成立し,東京工業大学は,横浜市緑区の留学生会館用地などを得て,蔵前からすべて移転した。このしるしは,東京工業大学の発祥の地を記念して建てたものである。

地図

地図

台東区蔵前2丁目 付近 [ストリートビュー]