山鼻兵村 開設碑

やまはなへいそんかいせつひ

 
撮影:
2018年5月(M.O.さん)
2018年7月(M.O.さん)

札幌市中央区の定山渓温泉へ向かう国道230号線(通称石山通)と、かつて明治天皇が来訪したことから名付けられたその名も「行啓通」の交差点角にある山鼻公園内(札幌市中央区南14条西10丁目)に大きな碑が建つ。

この付近は、明治7年(1874) 9月に「山鼻村」となり開拓が決定、2年後の1876年に屯田兵が入植、本格的な開墾が始まった。現在の国道230号線(石山通)は、明治3年(1870) に設置された東本願寺(札幌市中央区南7条西8丁目)が開通させた。この石山通を中心に、240戸1114人が移住して屯田兵村が開村し、本格的に開墾が始まった。札幌では現在の西区琴似に次ぐ、2番目の屯田兵村であった。

 碑は開拓決定20年を記念して、明治27年(1894) に、開拓民の有志の私財により建てられた。高さ約3mの台座の上に、やはり3mほどの堂々とした碑が建っており、当時の開拓民の心意気が感じられる。

「山鼻」の由来は、当時付近はに原生林が広がっており、藻岩山(531m)の端にあることから、「山鼻」と名付けられたそうだ。現在は住所表示としては「山鼻」の地名は残っていないが、学校や公園などの公共施設、札幌市電の電停名や店舗、建物など多くに山鼻の表記が残る。

現在の山鼻地区は住宅が建ち並び、札幌市内では落ち着いた昔ながらの住宅街の代表格のような街だ。マンションが増えたとは言え、大都会の札幌には珍しく、住民組織や町内会、商店街がきちんと機能しており、山鼻地区に愛着を持って暮らしている住民が多いことが伺われる。

碑がある山鼻公園のはす向かいには、この碑の維持管理も行う財団法人の山鼻記念碑保存資産があり、「山鼻屯田記念会館」を運営している。洋風の特徴ある建物で、1階には地元で人気のケーキ店が入っており、一見するとケーキ店のビルのようだが、歴とした郷土資料館だ。民営の公民館のような存在で、地域の住民の活動に利用されている。2階には、資料室があり、屯田兵時代の山鼻地区の歴史資料が保存・展示されている。

明治14年(1881) には明治天皇が北海道開拓視察で当地に立ち寄り、その際に「あれは何という木か」と訪ねたといわれるカシワの巨木が「お声がかりのかしわの木」と呼ばれ、地域のシンボルとされていた。このカシワは昭和51年(1976) に枯れて切り倒されてしまったが、枝分けをした子孫の木が現在も残っており、碑の西側に公園内で唯一、柵に囲まれた樹木となっている。「お声がかりのかしわの木」は、切り倒された際に切り株を輪切りにしたものが保存されており、山鼻公園から行啓通を渡ったところにある山鼻小学校内の資料室で現在も大切に保存されている。

写真

  • 山鼻兵村開設碑
  • 山鼻兵村開設碑 碑歴
  • 山鼻公園説明
  • 山鼻兵村開設碑 背面 碑文
  • 山鼻兵村開設碑 開設者氏名
  • 山鼻兵村開設碑 開設者氏名
  • 山鼻兵村開設碑
  • 山鼻屯田記念会館
  • 山鼻屯田記念会館にある説明

碑文

山鼻
兵村
開設碑

山鼻村距札幌西南里許笑柯山峙焉豐平川繞焉明治七年官定屯田兵制九年五月移青森秋田鶴岡宮城岩手五縣士民二百四十戸拾乢編第二中隊属第一大隊十年鹿児島役轉戦于人吉一瀬川高鍋間其功戴在史■不復詳此而種藝蠶桒之業亦逐年而與得良田七百三十町可謂兵農兩金矣今茲甲午之秋村民胥謀欲建紀念碑以傳不朽乃叙兵村創置之梗概刻之碑隂

明治二十七年九月三〇日

碑歴

明治七年屯田制度が制定されこの山鼻地区に山鼻兵村を設置することが決定した。
明治九年五月兵屋の建築が竣エすると同時に東北地区の諸藩士を主体とした二百四十戸の兵士・家族千百十四人が移住一大村落が形成された。
以来北方領土警備の責務と、生活を共にする家族を含めうっ蒼とした原始林と多くの野獣の遠吠えが聞える当時の山鼻地区を開発する厳しい任務を背負う苦難が始まりこれが山鼻開発の原点であった。
明治二十七年九月山鼻兵村開設から二十年を経過したのを記念して屯田の有志が私財を投じこの地にこの碑を設置した。
碑の題字は当時の屯田兵司令官陸軍中将永山武四郎です。毎年五月に移住の日を偲ぶ趣旨の下、山鼻小学校児童を含め祝典が挙行された。
その後大正元年九月二十七日山鼻記念碑保存資産が移住し今日に至る祖先への感謝と業績を後世に伝える目的をもって財団法人として申請承認された。
爾来この山鼻兵村開設碑は山鼻屯田の誇りとシンボルとして維持管理を財団が担っている。

財団法人山鼻記念碑保存資産

地図

地図

札幌市中央区南14条西10丁目 付近 [ストリートビュー]