清水建設㈱ 発祥の地

しみずけんせつかぶしきがいしゃはっしょうのち

富山駅から南へ約20km。旧富山市立小羽こば小学校(2009年閉校)の元校舎を利用した小羽公民館(富山市小羽)の裏手の小高い丘に、その名も「清水記念公園」がある。

公園の中心部に「清水包喜之碑」が建っている。碑は、かの渋沢栄一の揮毫らしく、説明によれば昭和3年(1928) の建立とのこと。渋沢の揮毫となっているのは、渋沢が創業期の清水組の相談役を務め、自宅も清水組が建てるほどの濃厚な関係にあったことによる。清水建設はこの小羽を発祥の地として永遠に守り続ける、としている。

清水建設創業者の初代清水喜助(包喜)は、この公園がある丘のふもと、公民館の脇にある場所で生誕している。現在は水田(休耕地か)となっている土地に生家があったとされ、その場所には生誕地を記す柱が立ち、柱には「清水建設㈱発祥の地」とある。こちらは富山市と合併する前の旧大沢野町観光協会が作ったものらしい。

ここで生まれた清水喜助は、大工仕事で地元の評判となり、上京して神田鍛冶町で大工業「清水屋」を興した。清水建設の社史によれば、喜助が神田で創業した1804年を創業の年としている。この神田鍛冶町を発祥の地としてもよさそうなものであるが、創業年と発祥の地がなぜか分かれているのだ。清水屋の発展とともに日本橋本石町、京橋、と本店が移っていったこともあるのだろう。

公園に設置された説明看板にもある通り、清水建設はこの地を「心のよりどころ」として大切にしており、新入社員研修でもこの公園を訪れている。

周囲は農村地帯で、ご多分に漏れず小学校が閉校するほど高齢化が進んでいる地域なのだろうが、公園は周囲に似つかわしくない立派さで、整備も完璧だ。清水建設がきちんと定期的に手を入れているのか、顕彰碑そのものも、昭和初期のものとは思えないほど美しく保たれている。さすがはスーパーゼネコンゆかりの公園だけはある。トイレに至っては周囲の田園環境に配慮した循環式だ。歴史ある大企業の律儀さと、創業家の余裕を感じる。

なお、棒杭のみの標柱だけでは意味が分からないので、当ページに清水公園内にある清水包喜之顕彰碑の内容も記しておく。

富山駅の近くには清水建設富山営業所があり、看板に「『富山』は清水建設発祥の地」とあり、公園の案内が記されている

写真

  • 清水包喜記念の碑
  • 清水建設㈱ 発祥の地
  • 清水建設㈱ 発祥の地
  • 清水建設㈱ 発祥の地
  • 清水包喜記念の碑案内板
  • 清水記念公園案内板
  • 清水包喜記念の碑
  • 清水包喜翁之碑

碑文

清水建設㈱発祥の地

建設業大手の清水建設㈱が創始された
清水喜助翁は天明三年この地で生れる

大沢野町観光協会

清水記念公園 清水包喜翁記念の地について

 当地は 清水建設株式会社の創業者である 初代清水喜助翁(包喜翁)の功績を称えるために顕彰碑を建立し その周辺を整備した公園です。

 喜助翁は 天明3年(1783)年 越中国婦負郡小羽村に生まれました。幼少の頃から彫刻などの技能に長けた喜助翁は すぐれた大工技術を身につけ 十代にして村人の家屋を建てるほどの腕前であったとされています。

 好きな大工の道で名を成したいとの思いで 喜助翁は故郷の小羽を離れ 日光東照宮の修理工事に従事した後 江戸へ入り文化元(1804)年神田鍛冶町に大工業を開業しました。清水建設はこの年を創業の年としています。

 喜助翁は 諸大名家の御用達大工として頭角を現し 開港間もない横浜への進出を果たすなど社業の発展に尽くし 安政6(1859)年 その生涯を終えました。

 喜助翁の死から約70年後の昭和2(1927)年 神通川沿いにある小羽という地名だけを頼りに 喜助翁誕生の地を探訪したのが 若き日の清水康雄(後の五代当主 清水建設社長)でした。翌 昭和3(1828)年 四代当主 清水満之助が 喜助翁の生家の裏山にあたる小高い丘に 翁の功績を称える顕彰碑を建立し 顕彰碑の周辺は清水宗家により「清水記念公園」として整備されました。「清水包喜翁之碑」と記された石碑の文字は日本の資本主義の父とされ 当社隆盛のため支援をいただいた澁沢榮一翁の揮毫によるものです。

 この地は 清水建設発祥の地として初代喜助翁の創業の精神に立ち返ることのできる 清水建設にとって「心のよりどころ」とでもいうべき 永遠に守り続けていく場所であります。

 清水宗家 六代当主 清水満昭
 清水建設株式会社

清水包喜翁之碑

正三位勲一等子爵澁沢榮一書

越中国婦負郡小羽村を合資會社清水組發祥の地となす當主清水滿之助君の高祖包喜翁は此地に生る姓は清水氏通稱は喜助包喜は其諱なり高宗祖諱は武兵衛君翁は其長子なり家世■農を業とす郷名主大荘屋等の公職に任す其家格は重しと謂うへし翁は天明三年に生れ安政六年五月江戸に歿す享年七十又六翁は夙に建築の技を好み天材あり屢は郷人の需めに應して屋宇を建造す規模廣壯なるも少からす壯年益す其技に長し是を以て一家を爲さんと欲し遂に意を決して妹某に家を繼かしめ文化元年正月單身江戸に出つ葢し大に爲すあらんと欲するなり然れとも其始め經營意の如くならす居を鍛冶町にとするや僅かに銀三分を以て資本と爲し大工職を持って業と爲す是を大清水組の創基と爲すなり翁は精力絶倫本業の餘暇日用器具を製し之を賣■1し凍寒酷暑を厭はす夜を以て日に繼き久からすして棟梁となる幾多の徒弟を育養し能く衆望を得たり翁は勤倹己を持し筍も空費せす貯蓄を以て不時に備へ或は以て弟子の善行を賞揚し或は同業者の貧にして死する者あれは其葬儀の費を辨す其用意の周到にして慈愛の厚き侈ね此類なり晩年に一流の棟梁となり名聲益す隆かく翁の設計建造するものみな當時の模範たりしと云ふ語に曰く始ある者は必す終ありと翁の如きは即ち是なり彼の北陸の一寒村に生れ徒手空拳不撓不屈の精神を以て勤勉刻苦し斯の偉業を就して子孫に遺せり而して二世清短君三世滿之助君皆克く其志を繼き且つ子爵渋澤榮一君の指導眷顧を受け遂に今日の隆盛をえたるは抑も翁の天稟剛毅の致す所と慈愛衆を待つの餘德とに非すして何そや昭和二年當主滿之を記せしむ余其宗祖孝順の志を美し不文を辤せす聊か其大要を識すこと尒

昭和三年歳在戊辰十一月

髙田忠周選拜書

包喜翁この地より江戸に上り
文化元年 神田鍛冶町に業を興す
爾来 時に應し機構を整え
清水組 清水建設として波瀾重畳のなか
社中一致 道を拓き 今日に至る
創業200年の今 翁の遺徳を偲び
清水建設 悠久の発展を祈念する

清水宗家 六代当主
清水満昭

清水建設 創業文化元年 200年の時を刻む
創業者清水包喜翁 徳有り志高く奮励努力遺風よろしく継承あって今日の繁栄を導く
謹んで 翁の偉業を称え 深謝の念を捧げる
役員 従業員 決意を今新たに 社業に邁進し清水建設 永遠の興隆を茲に誓い 祈念する

清水建設株式会社
会長 今村治輔 社長 野村哲也

■1:日本の国字ではない漢字らしく、類似の字がたくさんありすぎて推測もできませんでした

地図

地図

富山市小羽 付近