仏教 伝来之地

ぶっきょうでんらいのち

桜井線(万葉まほろば線)三輪駅から南東に1km。桜井市保険会館の西側,大和川(初瀬川)に架かる馬井手うまいで橋の北詰、金屋河川敷公園に高さ3.8mの大きな石碑が建つ。

仏教は,インドで開かれ,中国・朝鮮半島を経て日本(倭国)に伝えられた。その時期については諸説あるが,元興寺縁起による 宣化天皇3年(538) という説が有力となっていて学校でもそう教えている(酷い語呂合わせもある)。

ここ大和川畔一帯は,大阪湾から大和川を遡ってくる川船の終着地点であった。このため 海外交易の市“海柘榴市つばいち”が形成され,“山の辺の道”(日本最古の官道)や初瀬街道などの主要道が交差する交通の要衝でもあった。また欽明天皇の皇居とされる“磯城嶋しきしまの金刺宮かなさしのみや”をはじめ いくつかの宮跡伝承地があり,この地が 飛鳥に都が移るまでの古代大和朝廷の中心地であったと考えられ,百済からもたらされた仏教も当然この地に上陸したと推定される。

新しく渡来した異国の宗教の受け入れ問題をめぐって,当時の進歩派であった蘇我氏が崇仏を主張,一方 保守派の物部氏は排仏を固執し,両者の対立が次第に激しくなり 仏教もそのためにいろいろな迫害を受けた。しかし,用明天皇2年(587) になって,蘇我馬子は厩戸王(後の聖徳太子)とともに軍を起こし、排仏派の頭領であった物部守屋を打ち破り,ようやく仏教受容の道を開いた。

翌年,馬子は崇峻天皇が即位したのを機会に,崇峻天皇元年(588) 飛鳥の地にはじめて正式の仏寺を建立した。これが法興寺(飛鳥寺とも呼ばれる=元興寺の前身)である。百済の王は この日本最初の仏寺建立を援けるために仏舎利を献じたのをはじめ,僧・寺工・画工などの専門家を派遣してきた。

この飛鳥寺は,わが国仏教の源流となっただけでなく,蘇我氏を通じての大陸文化輸入の中心舞台となり、さらに政治・外交の場ともなった。いわゆる飛鳥時代の文化はまさに飛鳥寺を中心として展開した。

この後 都が藤原京(橿原市~明日香村)から奈良に遷されると,この寺も平城京に遷されて,寺名は法興寺から“元興寺”に改められ“平城の飛鳥寺”と通称されるようになった。現在 元興寺(奈良市中院町11)極楽坊の東門には「佛法元興浄土発祥」と書かれた看板が掛けられ,仏教が最初にもたらされた寺であることを誇っている。(→ 佛法元興浄土発祥

なお、“仏教伝来”について,近年は“仏教公伝こうでん”と称されることが多くなっている。“公伝”とは 国家間の公的な交渉として仏教が伝えられたことを指し,それ以前に既に私的な信仰としては伝来していたと考えられるためという。

写真

  • 仏教伝来の地
  • 仏教伝来の地
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碑文

佛教傳来之地

東大寺別當
平岡定海謹書

仏教伝来の地

 ここ泊瀬川畔一帯は,磯城瑞籬宮,磯城嶋金刺宮をはじめ最古の交易の市・海柘榴市などの史跡を残し,「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。

 そしてこの付近は,難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で,大和朝廷と交渉をもつ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。

 「欽明天皇の十三年冬十月,百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して釈迦仏金銅像一躯,幡蓋若干,経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の施設もこの港に上陸し,すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。

 この場所は,仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。

 また「推古天皇十六年,遣隋使小野妹子が隋使裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき,飾り馬七十五頭を遣して海柘榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました。

 私たちはこの地の歴史的由緒と,優れた日本文化を生み出す源流となった仏教伝来の文化史的意義を,広く永く後世にとどめるため,ここに顕彰碑を建立しました。

平成九年七月吉日

日本文化の源流桜井を展く会

ここより東南約三百メートル(水道局前庭)に磯城嶋金刺宮趾があり,宮趾の碑(保田與重郎書)と仏教公傳の文学碑が建てられている。

地図

地図

桜井市金屋 付近 [ストリートビュー]