徳川氏 発祥の地

とくがわしはっしょうのち

東武伊勢崎線 世良田駅の南にある永徳寺(太田市徳川町甲373)の入口脇に、大きな看板が建つ。

とにかく尾島町地区は「徳川氏発祥」の表示が多く見られる。徳川氏発祥についての詳細は、徳川氏発祥の地のページをご参照ください。

写真

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碑文

徳川氏発祥の地

史跡 徳川縁切寺満徳寺

永徳寺

所在地 太田市徳川町甲三七三番地一
本尊 薬師如来
医王山和光院永徳寺。天台宗。

寺伝によると、天台宗の開祖伝教大師最澄でんきょうだいしさいちょうの弟子・宥海上人ゆうかいしょうにんによって、大同元年(八〇六)に創建され、関東最初の天台三道場の一つだったという。建久三年(一一九二)に徳川家の祖・徳川(新田)義季よしすえが徳川郷に居館を構えると、薬師如来を深く信仰し、当寺を祈願所とした。
徳川家康が江戸城に入った翌年の天正十九年(一五九一)に将軍家先祖発祥の地として、徳川郷四百五十石が全て朱印地とされ、年貢課役免除・守護不入の特権が認められたとき、永徳寺も五十石の朱印地を拝領した。
寛永年間に天海僧正が世良田の長楽寺を再興、当寺を天台宗に改宗した際には、永徳寺が長楽寺の末寺百余の寺の筆頭とされ、長楽寺における灌頂かんじょう(密教で阿闍梨あじゃりから法を受けるときの儀式)の教授役を、代々永徳寺の住職が勤めることが定められた。歴代受けつがれてきた蓮華流灌頂の巻物三十五巻が当寺に保存され、中世の写本と推定される七本を含むそれら貴重な伝法関係聖教文書は、『群馬県史・資料編5』に全文収録されている。
江戸時代、元禄、宝永など度々利根川の洪水にあって、寺地も何度か移転したが、文化十四年(一八一七)には火災によって堂宇ことごとく焼失したため、長楽寺は円雄を住職として派遣し、永徳寺の再建にあたらせた。
円雄は、文政六年(一八二三)に寺社奉行より本堂再建助成のため、上野、武蔵二ヶ国の勧化(寄附をつのる)許可を得て奔走ほんそうし、二千七百五十両余の浄財を集め、弘化二年(一八四五)に本堂・庫裏くり・諸堂・築地石垣等の造営をなしとげた。かつて境内にあった権現堂(徳川家康をまつる)は、大正十三年(一九二四)に徳川東照宮の拝殿として移された。明治四十一年徳川河岸かしにあって船頭たちの守本尊とされてきた不動様の御堂を移築した。
本堂脇に現存する子育地蔵堂の本尊は、子どものやまいを治す地蔵様として信仰を集めてきた。また、境内には利根川に身を投じた相思相愛そうしそうあいの心中者をほうむった「比翼塔」が二基あるのが注目されるが、いずれも男女のよりそう姿が浮きぼりになっている。

永徳寺の文化財

(町指定重要文化財)
国教争論幕府裁許絵図・裏書
正田家三十代当主・隼人はやと義芳よしふさ筆杉戸絵(五十三枚)

平成元年三月

太田市教育委員会

地図

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