グライダー 発祥の地

ぐらいだーはっしょうのち

中央東線 上諏訪駅から北へ13km、霧ヶ峰スキー場の西のはずれに大きな倉庫のような建物は面積のほぼすべてがグライダー格納庫で、東側の一角が 諏訪市霧ヶ峰グライダーふれあい館(諏訪市上諏訪13338-1)展示室になっている。その展示において、発祥地であることが謳われている。

当地は、気象台長であり東大教授であった藤原咲平によって昭和7年(1932) に設立された。グライダーは車両やその他の地上設備によって射出、または他機によって曳航されて離陸して切り離され、無動力で滑空をする飛行機で、気圧や風を読み取ることで高度や距離が調節できる。そういったことから、自然観象の育成を狙ったとされる。

戦後は航空統制で設備まるごと撤去されたが、その後再建され、現在もフライト訓練が行われ、創始者 藤原咲平等の碑が設置されたりしている。

写真

  • 滑走路附近の案内看板
  • 藤原咲平碑 KGK有志 碑文(1977)
  • 藤原咲平碑 気象庁元長官 和達清夫 碑文(1977)
  • 藤原咲平像
  • 藤原咲平碑
  • ふれあい館
  • 展示室から格納庫を覗ける
  • ふれあい館パネル展示
  • 創始者 藤原咲平 説明
  • 鵜飼照彦説明
  • グライダー発祥の地
  • ふれあい館入口
  • 滑走路附近のグライダー

碑文

グライダー 発祥の地(霧ヶ峰)

霧ヶ峰グライダー研究会(KGK)は、わが国気象学上に大きな足跡を残された故藤原咲平博士(元中央気象台々長、元東京大学教授)が、グライダーの普及発達を通して自然観象の育成を念願し、昭和7年(1932年)に設立された。
以来霧ヶ峰高原は幾多の団体に利用され、わが国最大の最も優秀な滑空場へと発展して参りました。
昭和20年(1945年)終戦。ポツダム宣言によりグライダーや訓練機材、格納庫を消却。グライダーは禁止された。
昭和26年(1951年)日本の航空再開。
昭和27年(1952年)諏訪市が霧ヶ峰グライダー格納庫を設立。日本学生航空連盟・中部日本航空連盟が訓練を始める。
霧ヶ峰グライダー研究会再建、上諏訪滑空研究会発足、その後諏訪市グライダー協会が設立され、現在は同協会でグライダーの訓練をはじめ日本学生航空連盟や各大学航空部がグライダー訓練をしています。

霧ヶ峰グライダー研究会主任教官鵜飼照彦。昭和9年(1934年)霧ヶ峰式トイヘル型中級機に搭乗。霧ヶ峰カボッチョ山頂よりゴム索発航により対空日本記録(16分30秒)を達成。霧ヶ峰グライダーを国内に認識させた。
昭和10年(1935年)」。世界一流滑空士ウォルフ・ヒルトが来日、鵜飼照彦と霧ヶ峰上空をグライダー曳航用軽飛行機で飛び、霧ヶ峰はドイツグライダー発祥の地ローエン・ワッサークッペに匹敵する素晴らしい滑空場であると絶賛し、この草原で操縦することができる人は幸せだと述べた。
昭和13年(1938年)。北支大同野戦病院にて陣没。その最後の便りは人々の胸を打った。
“いつかグライダーでおくににささげる身を覚悟しておりました照彦、一人の兵隊として山西の山奥応県の土と化すを得ば、この上なき名誉と存じます。幸いお国のためお役に立つことがあれば霧ヶ峰吹く風とでもなって必ず山に帰りますとお伝え下さい”
鵜飼照彦の碑は、翌年霧ヶ峰グライダー格納庫隣へ有志により建設された。

地図

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諏訪市上諏訪 付近