開廓紀念碑
かいろうきねんひ
呉線 呉駅から南西に8.5km、音戸大橋を倉橋島に渡ってのすぐ西の路地を入ったところにひっそりと碑が建つ。
倉橋島北部の音戸町周辺で、特に音戸瀬戸を挟んで本土側(川尻)とを結ぶ音戸の渡しの船着場付近に小規模な遊女屋が立ち並んでいた。
明治22年(1889) 呉鎮守府開庁に伴い、海軍関係者の往来増加した。それに伴い、音戸瀬戸の港町としてのにぎわいと、船員・旅人が集積していった。音戸地区は呉市中心部から比較的近く、陸海両交通の要衝となっていくのは自然の流れだった。音戸周辺には私娼的な営業を経て、のちに行政の許可を得て小規模な公娼地区が成立した。
遊郭ができたといっても、極めて小規模で、3~5軒程度だった。明治38年(1905) 発行の『全国遊廓案内』によれば、当時貸座敷8軒、娼妓85名が在籍したとされる。
音戸遊廓跡(2013.7)。入口に立つ大正8年建立の「開廓紀念碑」に「明治四十年六月開廓」とある。貸座敷8軒、娼妓85人(全国遊郭案内)。#広島県呉市 #音戸 #遊廓跡 #石碑 #写真が好きな人と繋がりたい #ファインダー越しの風景 pic.twitter.com/YLP5jI0OgB
— 佐々張ケン太(しまたか) (@sasabarikenta) July 9, 2019
この狭い海峡「音戸の瀬戸」は、渡し船を使って行き来していたのだが、2本も立派な橋がかかり渡船は廃止。クラファンで維持しようと300万円以上集めたが船体修繕をした他は待合所をカフェに転用したり、再開するという話は聞こえてこない。
- 瀬戸内ダークツーリズム
https://note.com/setouchi223069/n/nbc4a4f577024
写真
碑文
𫔭廓紀念碑
- 廓創設者
- 城谷谷惣氏
家頭昌德氏- 建設者
- 大森次左郎
大室佐市
角田好五郎
上野 壽
川下ハル
渋谷兼一郎
大窪慶三郎
正木フチヨ明治四十年
六月開廓大正八年
六月建設