忍者 発祥地
にんじゃはっしょうち
伊賀鉄道 伊賀線・近鉄大阪線
県道39号から千方窟方向への曲がり口にある案内図にも記されている。
写真
碑文
千方城跡(千方の窟)忍者発祥地
今から一千余年前の平安時代に藤原鎌足を始祖とする藤原千方という無敵の将軍と四天王と呼ばれる四人の配下がいたといわれています。
千方の力を恐れた朝廷は紀朝雄を大将とする征伐軍を向かわせましたが、千方は数百の軍で紀朝雄の五万の大軍を苦しめました。それには、。四天王が金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼という四鬼となり神変秘練の術を使って戦ったといわれております。「太平記」に綴られたくだりに「金鬼はその身堅固にして矢を射るに立たず。風鬼は大風を吹かせて敵城を吹き破る。水鬼は洪水を流して敵を陸地に溺す。隠形鬼はその形を隠して俄敵をとりひしぐ。かくの如き神変、凡夫の知力を以て防ぐにあらぜれば伊賀、伊勢の両国、これが為に妨げられ、王化に従う者なし。」とあって隠形鬼は忍者そのものであり、金鬼(火鬼)、水鬼などはのちの火遁、水遁の術を連想させるなど、まさに「忍者のはしり」といえます。
征伐軍の紀朝雄は苦戦ののち、天皇の名のもとに、草も木も 我が大君の国なるに
いづくか鬼のすみ家なるべき(国を司る朝廷に背けばいつか必ず天罰が下る)
と歌文を書いた矢文を打ち込みました。
この矢文を見て我に返った四鬼は、逆賊の汚名に耐えられず戦意を失い風穴に姿を消しました。千方は自軍を見捨てる事はできず、その後も戦い続けましたが勇戦空しく敗れました。
しかし、戦で初めて集団による秘術を駆使したのは千方であると伝えられ、この地こそ忍者の発祥地と言われております。元禄十一年 芭蕉の高弟、山岸半残、服部土芳がこの地を訪ね、三国岳・千方将軍籠居の跡として詠んでいるのが「伊賀名所句集」に収められています。
眠より おとすあられか 鬼の君 ─半残─
よじ登る 蔦の色なす 石の壁 ─土芳─
平成二〇年(二〇〇八年)千方伝承館