石灰焼き発祥の地

いしばいやきはっしょうのち

日豊本線 津久見駅から1kmほど北西、東九州自動車道の津久見インターの南。国道217号から少し南に入った所にある小さな児童公園のフェンスの内側に 「石灰焼き発祥の地」と書かれた説明板が建っている。

「石灰焼き」は 「せっかいやき」ではなく,恐らく「いしばいやき」と読むのだろう。「いしばい」は 現代でいう「消石灰」のことで,石灰石を高温で焼いた「生石灰」に水を加えて製造される。 土蔵や城郭に白壁を塗るための漆喰として,あるいは畑の消毒用として使用された。

各地の石灰石の産地では 江戸時代後期から石灰焼きが行われており, 栃木県葛生の“野洲灰”,岐阜県赤坂の“美濃灰”,高知の“土佐灰”,福岡県の“筑前灰”, 大分の“津久見灰”などが有名である。

津久見市は,西部の山地で大規模に石灰石が採掘されており, 明治初期には石灰焼きの窯が多数築かれていた。大正年間になるとセメント工場が創業され,やがて太平洋戦争に際して小野田セメント・浅野セメントの2社に集約され,現在は太平洋セメントとなっている。

余談だが,消石灰は学校で運動場のライン引きなどに使われており,また農家では土壌の消毒に使われている。 しかし消石灰は水に溶けてアルカリ性となるため人体の粘膜・皮膚を侵す。眼に入ると角膜などに障害を起こし,最悪の場合は失明する可能性があることが指摘されており, 最近は代替品の使用が推奨されている。

写真

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碑文

石灰焼き発祥の地

 石灰焼成事業は,津久見市の主要な産業のひとつとして,古く江戸時代の終わり頃から下青江地区や徳浦を中心に行われてきました。
 ご存じのとおり,豊後国(大分県)での石灰焼きの始祖といえば「焼石又平」と呼ばれる人で,本名を市作といい川登村(野津町)の出身の人です。又平は,美濃国(岐阜県揖斐郡)で石灰焼きの技術を習得しました。実際に焼き始めたのは今から210年余り前の安永七年(1778) のことです。
 津久見地域に関する史料についても数多く残っており今のところ,川登村におくれること十三年後の寛政三年 (1791),臼杵畳屋町の吉田屋八十治が小園村で焼いたのがその始まりとする説が有力視されています。
 その中で,石灰焼きの起源に関して,解脱闇寺に興味深 い記録が残っています。「解脱闇寺年代記」と呼ばれるこの史料には,「明和四年(1767),玄如首座(真関玄如和尚,同寺代22代)が門前村の朝日寺旧地 にて石灰焼きを発明する。」とあります。 また言い伝えによると,この地(朝日寺跡)で,玄如和尚が或る日,茶を沸かすために石で囲って火を焚いたところ,その石が石灰石であったので焼けて石灰となったというものです。この焼成の技術が,そのまま本格的な生産及び販売に結びつくものではありませんでしたが,石灰焼きの技術を発明したかくれた創始者でもあったのです。因に朝日寺は,天正十一年(1583)頃,宗麟がキリスト教を拡める為に焼き払ったという寺社のうちのひとつといわ れています。
 現在,当地には「寺屋敷」という地名が残っており,またミカン畑となってい る一角に小規模の鍾乳洞があり,その前には玄如和尚が座す墓石(寛政八年 (1796)銘)が立っています。毎年十一月十四日の命日は,その功績を讃え,遺徳を偲ぶため,有志の人たちにより供養が行われています。

石灰焼き創始者顕彰事業発起人一同
平成六年六月

寄贈 津久見ロータリークラブ

地図

地図

津久見市門前町 付近 [ストリートビュー]