日本 考古学 発祥の地

にっぽんこうこがくはっしょうのち

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東北本線 矢板駅から東に約23km、水郡線 常陸大子駅から西に約29km、笠石神社(大田原市湯津上430)の鳥居前に、令和3年(2021) に設置された碑がある。

飛鳥時代のものとされ日本三古碑にも数えられる那須国造碑が笠石神社にあるわけだが、延宝4年(1676) に発見され領主 徳川光圀が笠石神社を創建し碑の保護を命じたので、国造碑に神社が附属しているという関係である。

また、光圀公は碑にある那須直韋提なすのあたいいでらの墳墓とされる上侍塚古墳・下侍塚古墳の調査と保全を命じ、出土品はメモをして松の箱に収めて埋め戻され、墳丘が崩壊しないよう松の木を植えて保護された。

このような方法は現代の考古学に近いものであり、江戸時代にすでに為されていたことから考古学の発祥と宣言したものだ。

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碑文

日本考古学発祥の地

徳川斉正 謹書

日本考古学の原点
  湯津上の侍塚古墳

那須の湯津上は国宝・那須国造碑、史跡 侍塚古墳を擁する下野国有数の歴史的中枢の地域である。
那須国造碑に見える「直韋堤」の由来を志向し、奥津城を探賾した水戸藩主徳川光圀公は、往古具現の英傑として史上に膾炙されている。とくに侍塚古墳の発掘は、わが国の考古学の根源として光輝している。
侍塚古墳の発掘は被葬者告諭に初じまり、墳丘形状の測地、発掘の目標、発掘出土物の絵図化、発掘次第文を添えて出土物を木箱に一括密封して埋置、発掘後の墳丘復旧など一連の経緯が統括され、光圀公の指示により儒臣佐々宗淳の差配、庄屋大金重貞の知悉文筆の記録として伝えられている。
この希有の事跡は、近代考古学の方法と等しく、正に日本考古学の原点として、高く評価される。

令和三年三月二十八日

文学博士 坂誥秀一 撰文

地図

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大田原市湯津上 付近