皇典講究所 創設

こうてんこうきゅうじょそうせつ

中央線 飯田橋駅近くの東京区政会館(千代田区飯田橋3-5-1)敷地南西隅あたりに、背の低い黒い石碑が2つ並んでいる。右側の石碑には「發祥記念碑」とだけ記されていて、それだけでは全然伝わらない。見れば、当地に皇典講究所が創設され、それが日本大と國學院大に引き継がれていったというようなことがわかる。

大衆へ向けて皇道の教化活動を行う機関が必要とされ、明治天皇は明治15年(1882)有栖川宮ありすがわのみや幟仁たけひと親王を総裁に任命し、有栖川宮から令旨が奉じられた内務省高官 山田顕義らと、松野勇雄ら数名の国文学者によって、同年11月4日、皇典講究所が創設された。修身・歴史・法令・文章の文学部と、礼式・音楽・体操の作業部があった。明治23年(1890)には皇典講究所に国史・国文・国法を教授する國學院を開校し、その国法を専修する所を日本法律学校とした。太平洋戦争敗戦後にGHQの強い干渉を受け解体、國學院大と日本大へと変化してゆく。

発展の過程において、大正12年(1923)には渋谷氷川裏御料地(現在の國學院大學 校地)に移転した。

すぐ近くの明治通り歩道には、國學院大學開校の地碑・日本大学開校の地碑がそれぞれある。

何も名乗らずいきなり「発祥」としてしまうのは、田舎のバス停「四つ角」「学校前」などの命名規則のようで和む。隣に並ぶのは、渋谷移転後の大正13年(1924)にできた日本医科大学付属第一病院記念碑。

写真

  • 発祥記念碑
  • 発祥記念碑
  • 発祥記念碑
  • 発祥記念碑

碑文

発祥記念碑

明治十五年 有栖川宮熾仁親王を総裁としてこの地に皇典講究所創設 同所を母体に 山田顕義所長のもと
明治二十二年 日本法律学校(現 日本大学)
明治二十三年 国学院(現 国学院大学)を
開設す

昭和六十年十一月吉日 建立
日本大学
国学院大学

地図

地図

千代田区飯田橋3丁目 付近 [ストリートビュー]