明性小校跡
みょうせいしょうこうあと
飯田線 市田駅から北西に3.8km、天台宗 大嶋山医王院 瑠璃寺(下伊那郡高森町大島山812)境内、瑠璃の里会館近くに高さ2mほどの石標がある。
この時期、全国的に寺院の一角を借りて「小学」が設けられることが多く、瑠璃寺の境内もその例に漏れない。瑠璃寺は高森町大島の古刹であり、その敷地内にあった塔頭の一つ「全性院」が、初期の教育の場として提供されたのである。
「第3中学区第7番小学 明性小校」は、当初この全性院を仮校舎として使用し、地域の子どもたちに対して初等教育を開始した。児童の通学範囲は、おもに大島地区を中心とした周辺集落であったとされる。
明性小校はやがて児童数の増加、教育内容の拡充、そして学区再編の流れの中で、大きく発展していく。大島地域における明性小校は、その後、校舎を別の場所に新築・移転していく過程を経て、地域の小学校教育の母体となった。その流れの中で、耕文小校(のちの市田尋常小学校を経て高森北小学校)との再編・統合が進められた。
写真
碑文
明性小学校
記
明治六年学制頒布により大島山村においては瑠璃寺塔頭全性院を学校として生徒数男子十八名女子四名で発足校名を明性小学校と称す
筆塚古筆千本供養
平成十六年四月吉日
大洞塔峰之建
原文まま