長岡 国漢学校 発祥之地

ながおかこっかんがっこうはっしょうのち

上越新幹線 長岡駅から南東に500m。曹洞宗 昌福寺(長岡市四郎丸4丁目6-21)の本堂近くに「長岡国漢学校発祥之地」と刻まれた大きな石碑が建っている。

長岡は 江戸時代には 新潟県中越北部から下越西部にまたがる藩であった。 幕末の戊辰戦争に際しては 旧幕府側につき 新政府軍と激戦となり, 多くの戦死者を出して 降伏した。敗れた長岡藩は, 石高を 1/3近くまで減らされたため 財政が極度に窮乏し, 領民は その日の食にも苦慮する状態となった。 この窮状を見かねた近くの三根山藩が 百俵の米を贈ることとなった。しかし 藩の大参事であった小林虎三郎は, 贈られた米を藩士に分け与えず, これを売却して 学校を設立する費用とすることとした。藩士たちはこの通達に驚き 抗議をしたが, 虎三郎は「百俵の米も 食えばすぐになくなるが, 教育にあてれば明日の一万俵・百万俵ともなる」 と説得し 実施した。

この“米百俵”の売却益によって開校したのが「長岡国漢学校」であった。

この「米百俵の精神」は, 後に 山本有三が戯曲「米百俵」に著し, また 近年には 小泉純一郎 元首相が 国会での所信表明演説で引用したため有名になり 流行語にもなった。

国漢学校は 明治2年(1869) に 昌福寺の本堂を借りて開校し, 翌年には 近く(大和だいわデパート付近)に新校舎を建てて移転した。しかし 新たに発布された学制によって 明治4年(1871) には廃止されて 新しい 小学校に引き継がれていった。

このような歴史により, 昌福寺には「長岡国漢学校発祥之地」の碑が, 大和デパート前(長岡市大手通2丁目)には 「米百俵之碑」が設置されている


昭和33年(1958) に開店した大和長岡は平成22年(2010) に閉店した。

写真

  • 長岡国漢学校発祥之地
  • 長岡国漢学校発祥之地

碑文

長岡國漢學校發祥之地

明治二年五月一日 當昌福寺開校

米百俵之碑
国漢学校跡地

小林虎三郎 文政十一年(一八二八)に生まれ,晩年 病翁と改めた。 佐久間象山に学び,吉田松陰と象門の 二虎と称された。 戊辰戦争後,敗残のすえ,焦土と 化した長岡の大参事に抜てきされた。 教育第一主義を 唱え,支藩三根山藩の教米百俵を赤貧にあえぐ藩士の 強要を退け, 国漢学校設立の資にあて,長岡復興の礎を つくった この事跡は山本有三著「米百俵」によって 広く世に伝えられた。
明治十年病歿 年五十。

地図

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長岡市四郎丸4丁目 付近 [ストリートビュー]