高岡 鋳物 発祥地
たかおかいものはっしょうち
金屋町は,慶長14年(1609) に加賀藩第2代藩主前田利長公が高岡城を築いた際に,城下の産業発展のために砺波郡西部金屋(戸出西部金屋)に住んでいた鋳物師7人衆を高岡に呼び寄せ,5か所の吹場(鋳造作業場)を建設し 開業させたことに始まる。金屋本町に残る「仁安の御綸旨」によれば,この鋳物師衆は,河内国丹南郡狭山郷日置庄に住んでいた勅許鋳物師の流れをくむ,由緒ある鋳物師たちであると伝えられている。
利長公は,彼ら鋳物師衆に対して千保川左岸の長さ100間,幅50間,広さにして5,000坪拝領地を与え,さらに税や労役などの藩の諸役を免除する特権を認めるなど,鋳物師衆を手厚く優遇した。それ以後,金屋町の鋳物業は大いに繁栄し,高岡鋳物師発祥の地として今日の高岡の銅器・アルミ産業の礎となった。
金屋7か町の人々は,利長公に対して報恩感謝の誠を表わすため,毎年 6月20日(利長公の命日で旧暦の5月20日)に「御印祭り」を執り行っている。 祭で歌われる「やがえふ」は,鋳物師が地金を溶解するため「たたら」を踏む重労働の時に,心身を励まし,調子を一つに整えるために自然に生まれた作業歌であり,高岡の郷土民謡として知られている。
このような歴史の上に建つ鋳物師のまち「金屋の町並み」は,格子戸やそで壁がつらなる落ち着いた風情の町家が建ち並び,伝統的な美しさを呈している。また,雪を考慮して大きな登り梁を入れた屋根をおもてに傾斜させた平入りの家が軒をつらねている景観は,北国の町並み独特のものである。
ここの町家は,どっしりと安定感があり,特に古い家は2階を居室ではなく物置にしていることから,極めて低く押えられており,風格を感じさせる建物である。部屋は,道路側からミセ,ブツマ,ザシキを配し,中庭を隔てて土蔵を置き,土蔵の裏側に火気を使用する吹場を設けて,土蔵を防火帯にするなど,随所に工夫が凝らされていて興味深い。
写真
碑文
高岡鋳物発祥地
利長十六世之孫前田利建書
高岡ノ開祖前田利長卿ハ慶長十四年九月十三日高岡入城ノ後砺波郡西部金屋村ヨリ鋳物師七名ヲ招キ工場五ヶ所ヲ設ケ之ニ宅地ヲ給シ金屋町ト命名セラレタノガ高岡鋳物ノ濫觴デアル高岡鋳物師ハ御綸旨ニアル河内丹南勅許鋳物師ノ嫡流デアッテ人眞継家ヨリ北国筋ノ鋳物師頭ヲ命ゼラレテアッタモノデアル当業者ノ精進努力ハ製品ノ声価ヲ高カラシメ其ノ流レヲ汲ム者全国ニ普ネク業益々振イ海外輸出品トシテ重キヲナスニ到ッタ今歳高岡開市三百五十年祭ニ当リコノ処拝領御印ノ地ニコノ碑ヲ建テ以テ往時ヲ偲ブモノデアル
昭和三十四年九月十三日
飛見文繁 撰
社浦宗三郎書