山形 鋳物 発祥の地

やまがたいものはっしょうのち

 山形市銅町どうまち。JR山形駅の繁華街から県道22号線を3kmほど北へ走ると、馬見ヶ崎川にかかる千歳橋南側の道路際(1丁目6番付近)と、そこから250mほど南側の銅町南端の道路端(2丁目13番付近)に、おそらくおそろいとみられる大きな鉄瓶のオブジェが建つ。観光協会によれば、高さ1.6m、重さ約400kg。鋳物製のモニュメントではおそらく国内最大規模という。

 鋳物が山形に伝わったのは平安後期。源頼義とともに山形入りした鋳物職人が、現在の銅町の脇を流れる馬見ヶ崎川の砂や土が鋳物の型に適していることを見いだし、その後もこの地で鋳物を作り続けたことによる。その後、初代山形城主の斯波しば兼頼かねよりが、軍用の金物を鋳物師に作らせたという記録が残っているそうだ。

 江戸時代、十一代城主の最上義光が馬見ヶ崎川の北側に職人を集め、銅町と、火を扱う鍛治町を置いたという。銅町は現代まで地名として残っているが、鍛治町の名はその後消滅している。

 明治時代は鉄瓶や茶釜などの美術工芸品も作られるようになり、現代まで続いている。大正昭和になると機械化が進み、銅町は機械鋳造と工芸品の両面を有する鋳物産地となった。昭和40年代には公害や工場用地の問題で、機械鋳造の多くが新しくできた工業団地へ移転。銅町には美術工芸品を作る職人が残った。

 現在、山形は茶道の世界で湯釜の主な産地として知られている。

当ページの写真は、千歳橋側のもの。

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写真

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碑文

山形鋳物の由来

 その昔、平安時代の奥羽平定のため源頼義が山形地方を転戦し、その時従軍した鋳物師が、山形市内を流れる馬見ケ崎川の砂と土質が鋳物で最適であることを、たまたま発見。何人かがこの地に留まり、このことが山形鋳物の始まりとなった。
 その後、室町時代に入封し初代山形城主となった斯波兼頼からの手厚い庇護を受けた。安土桃山時代、山形城主となった十一代最上義光は城下の再編を行い、城下北部に流れる馬見ケ崎川左岸に、鋳物師などを移住させて「銅町」と命名した。その折、鋳物師17人移り住み、全国でも有数の鋳物産地としての「銅町」の基礎がつくられ、現在に至っている。

地図

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山形市銅町 付近 [ストリートビュー]