旭川 教育 発祥之地
あさひかわきょういくはっしょうのち
函館本線 旭川駅の北西1.5Km。旭川大橋から曙1条通りを300mほど東に入ったところに、「くにもと病院」がある。3階建てレンガ色の病院の前(窓の下)に、本を広げた形のデザインの発祥碑が建っている。
この碑については情報が少なく、碑文に書かれた以上の状況はわからない。碑文に「北見道路の工事が終ってあき屋になっていた監獄署の建物を利用して」云々の説明があるが、その事情は次の通り。
北海道の開拓は「移住民による開拓」「屯田兵による開拓」それに「囚人の使役」を3本柱として進められた。特に屯田兵や移住民の入植をすすめるため、基幹道路の開削や炭鉱における採炭などの重労働に、本土から送り込まれた囚人たちが使役され、強制労働させられた。
当時の刑務所は“集治監”と呼ばれ、上川地方では明治14年(1881) に現在の月形町に「樺戸集治監」が置かれた。収容人数最高2300人余という大規模なものだった。収容者は刑期10年以上の重罪犯と政治犯だったが、劣悪な環境・過酷な重労働により多い年には年間100人を超える死者が出たという。
「北見道路」は旭川と網走を結ぶ道路で、大量の囚人を投入して明治24年(1891) の一年間で完成させた。その労働は原始林や原野を人力のみで切り開く極めて過酷なもので、使役された囚人の20%以上が死亡したと言われる。
なお“集治監”の状況については、吉村昭の小説「赤い人」に詳しく描写されている。
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くにもと病院は令和3年(2021) 5月に移転した
写真
碑文
旭川教育発祥之地
明治二十四年大谷派札幌別院の久教淵(ひさしきょうえん)という托鉢僧が巡教に入地したが杉谷宇吉衛門のすすめに従って、丁度北見道路の工事が終ってあき屋になっていた監獄署の建物を利用して説教所にした。
やがて教淵は近所の子どもを集めて読みかきを教えるようになる。
これが旭川における教育の始まりであり本市における教育発祥の地である。