第十五 輸送 飛行中隊 発祥の地
だいじゅうごゆそうひこうちゅうたいはっしょうのち
八高線 児玉駅の北約4km。高崎線本庄駅の西 約4km。本庄市・神川町・上里町にまたがる児玉工業団地の一角の、「児玉飛行場之跡」碑,「第四教育飛行隊 鎮魂碑」などの石碑が建っている中に, 小型の白い石碑に「第十五輸送飛行中隊発祥の地」の文字が見える。
「第十五輸送飛行中隊」がどのような経緯で“発祥”し, その後 どうなったかについては 資料が得られず 不明。
埼玉県には 戦前, 熊谷飛行場・松山飛行場・坂戸飛行場……など 数多くの軍用飛行場があった。ここは その一つ, 陸軍の児玉飛行場があった場所 であある。戦時中に訓練用飛行場として 急遽造られた模様で, 後には「児玉基地」と呼ばれ 特攻隊の基地として使用された。
現在は ほとんどが 工業団地として利用されている。
巨大な「児玉飛行場跡碑」には 次のように記されている。
児玉飛行場之跡 鎮魂
碑文
第二次世界大戦の苛烈な戦局下, 当地に建設された児玉飛行場の生涯は, まさに戦いの 歴史であった, 即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として, 日本々土に来襲する敵軍の 勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国 に其の名を馳せている。其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠 る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ, 各種団体から 小学校児童に至るまで, 困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し, 昭和17年春より約1年有半 の歳月を経て完成した。昭和18年10月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大 尉)として使用開始し, 同校の95式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。先ず, 暁部隊の将校, 下士官学生15名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。続いて, 昭和 19年4月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官200名が入校し, 児玉教育隊と改称され, 3ヶ 月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。又同 年8月, 第1練習飛行隊の編成を見るや全将兵は, 児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移 駐した。同年10月児玉基地と改称, 第144飛行場大隊が配備され, 各分科飛行部隊及び, 特別攻撃隊の基地, 拠点となって帝都の防衛, 硫黄島攻撃, 或いわ太平洋近海を遊弋す る敵機動部隊に対する攻撃等, 重要航空作戦の任にあたった。昭和20年8月15日大詔を 拝し戦局を結ぶ。児玉基地は, 映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられた が, 祖国日本の栄光を背負って戦った。児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残し て, その思い出だけを住民, 軍関係の記憶に留めて日本と運命を共にし, 三年有余の歴 史を閉じた。我が民族の限り無い雄叫は, 歴史の試練に苛まれ乍らも, 同年秋, 110余 名の開拓団員の入植となり, 農耕地にすると同じに一部は工業団地として再生し今日に 至る。戦後35年を閲し, 往時の留魂, 姿を偲ぶ何物もなく, 追想のみ錯綜し物心共に漠 々たるものを覚ゆる時, 此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声 こんこんとして湧くが如く起る。幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と, 更に碑 建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことは, まさに天佑神助と信じ共に 感謝するところである。茲に熊谷陸軍飛行学校, 第1練習飛行隊第144飛行場大隊の関係 者並びに地元有志の発願により, 児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士 を始め, 教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り, 再び戦争を繰返さないことを願 いつつ, 世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。
昭和55年11月15日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会
また、飛行場跡地から出土した爆弾の残骸が石碑と共に添えられている。
却火
大東亜戦争末期の昭和二十年五月から七月に遠く太平洋の波頭を超えて来襲した米機動艦隊のグラマン機によって児玉飛行場は爆撃や機銃掃射の攻撃を受けた。
この爆弾は、戦後の昭和三十五年児玉飛行場跡北西隅の地下二㍍から出土した三発である。
犠牲者の冥福を祈り、久遠の平和を祈念する。昭和五十五年一月十五日 児玉開拓 岩田七郎
平成二十二年四月吉日
田淵鷹夫 冨田吉雄 山本四郎 建之
写真
碑文
第十五輸送飛行中隊発祥の地記念碑
内閣総理大臣 中曽根康弘
第十五輸送飛行中隊戦死者
大松少佐 中田少尉 萩野曹長
国分中尉 若林准尉 小南曹長
西田准尉 加納准尉 西沢伍長
山崎准尉 岡辺曹長 武川兵長
門屋准尉 遠藤曹長 加藤候補生中隊戦友会建之