日本初の本格的な製鋼所
にっぽんはつのほんかくてきなせいこうじょ
阪神なんば線 伝法駅の東隣、伝法小学校(此花区伝法3-13-10)の正門を入った右側に「日本鋳鋼所跡」という石碑が建っている。
我が国における製鉄技術は,江戸時代までは“たたら吹き”と呼ばれる古来の方法によって,砂鉄と木炭を原料に和鉄が生産されてきたが,江戸時代末期になると,洋式の大砲を鋳造するために反射炉の技術が導入され,各地に反射炉が建設された。これに対して,鉄鉱石を鉄源として,生産プロセスが連続化された洋式高炉の出現は,日本の近代製鉄の幕開けを告げる画期的な出来事であった。
明治政府は殖産興業のスローガンの元,官営製鉄所の建設を決め,製鉄技術習得の目的でドイツに派遣された7名の技術者のうち,山崎久太郎・羽室庸之助の2名は与えられた研究テーマ(製鉄用ロール技術)を放棄して,専ら鋳鋼技術の研究を行い,帰国後は恩師である平賀義美博士(大阪府立商品陳列所長)の支援を受け,明治32年(1899) に大阪財界人の共同出資を得て,この地 伝法に「日本鋳鋼所」を設立した。
翌年には国営の八幡製鉄所よりも1年早く初めての湯出し(熔けた銑鉄を取り出すこと)に成功したため,民間資本による近代製鋼業の発祥とされ,この地は日本の近代化史に特筆される史跡である。
しかし日本鋳鋼所は技術未熟のため巨額の損失を出し,かねてから製鉄事業に関心を示していた住友財閥に営業を譲渡。明治34年(1901)「住友鋳鋼場」と改称し,設備を拡張。日露戦争前には 平炉2基,年産2,000トンの製鋼能力を持つようになった。その後 昭和10年(1935) に「住友金属工業㈱」と社名を変え,平成24年(2012) には 新日鉄と合併して「新日鉄住金㈱」の製鋼所となっている。
大阪市のホームページ(イベント・観光)の「歴史の散歩道--中之島・鶴見コース」には 次のように書かれている。
日本鋳鋼所跡
日本鋳鋼所は,我が国最初の本格的な平炉をもつ製鋼所である。江戸時代末には、各地で反射炉を用いて製鉄が行われていたが,明治に入って兵器用に輸入炉で製造していた。民間にその施設が払い下げられて、再活用されていた。
日清戦争後,重工業発展政策がとられたことをうけて,明治34年には八幡製鉄所が創建された。大阪では明治32年,ここで日本鋳鋼所が創建,3.5トンのシーメンス式平炉およびドーソン式ガス発生炉を設置し,翌年には八幡に先んじて初湯を出した。その後,工場を拡張するなどしたが,需要が整わず製品も一定せず、経営困難に陥った。住友家ではこの施設一切を譲り受け,住友鋳鋼所を設立し明治40年島屋工場へ移転するまでここにあった。
日本鋳鋼所時代の遺構としては,伝法小学校と隣の西光寺との境界に赤レンガ塀が創業期の姿を保ったまま現存する。また住友金属工業の島屋製鋼所内に開設された「はがね歴史記念館」では,このレンガ塀の一部を移設展示している他,最初の製品カタログや製鋼の技術と歴史の証となる多数の史料が公開されている。
写真
碑文
日本鋳鋼所跡
日本鋳鋼所は明治三二年(1899)八幡製鉄所に先立ち日本初の本格的な製鋼所として大阪の財界人によりこの地に創建された
・・・日本の近代的な製鋼業は日清戦争後の重工業発展政策をうけて、明治34年(1901)に八幡製鉄所の創建から語られることが多いが、大阪では明治32年 (1899)片岡直輝が所長となり、大阪商品陳列所長の平賀義美らの支援をうけて、日本鋳鋼所が創建された。これは3.5トンの平炉及びガス発生炉を伴う本格的なもので、33年(1900)4月には八幡製鉄所に1年先立ち初湯をだした。・・・設置者:大阪市教育委員会
西尾正也大阪市長に宛てた伝法小学校卒業生吉川隆一の(1993.7.2付)提案書に基づき、市文化財顕彰委員会が調査審議し、1995(平成7)年3月教育委員会事務局文化財保護課によって建立された。
参考文献 : 「最初の民間平炉・日本鋳鋼所の創設」 山崎升名誉教授 東京工大クロニクル No.257 July 2001