慶応義塾 発祥の地
けいおうぎじゅくはっしょうのち
築地の明石町。聖路加病院・聖路加看護大学・中央保健所とに囲まれる場所、"病院前"交差点に、ロータリー(三角形の安全地帯)がある。ここに「日本近代文化事始の地」という説明板があって、『慶応義塾発祥の地』『蘭学の泉はここに』という二つの石碑が建っている。
福沢諭吉は、中津藩の命により江戸築地(鉄砲洲)に蘭学塾を開いたが、外遊によって西洋文明を摂取して蘭学より英学の振興が必要と考え、慶応4年(1868)「慶応義塾」と称する私塾を開設。明治4年(1871) に芝三田に移転。明治23年(1890) には大学として正式に認可され、日本最初の私立大学となった。
同じ場所に建っている「蘭学の泉はここに」碑は、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵の三人がこの築地近く(鉄砲洲)にある中津藩邸で、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳を行ったことを記念するもの。
写真
碑文
日本近代文化事始の地
「慶應義塾発祥の地」
「蘭学の泉はここに」1982年2月3日
天ハ人の上𛂌
人を造ら𛁏゙
人の下𛂌
人を造ら𛁏゙安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。
創立百年を記念して昭和三十三年慶応義塾これを建つ。慶応義塾の起源は一八五八年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。この地はまた一七七一年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。
一九八五年年四月二十三日除幕
設計 谷口吉郎
施工 熊取谷石材
解體新書
蘭学の泉はここに
一七七一年・明和八年三月五日に杉田玄白と中川淳庵とが前野良沢の宅に集まった。良沢の宅はこの近くの鉄砲洲の豊前中津藩主奥平家の屋敷内にあった。三人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべてその正確なのにおどろき、発憤してさっそくきようからこの本を訳しはじめようと決心したのである。ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、オランダ語をすこしは知っている良沢にも、どう訳していいのかまったく見当がつかない。それで身体の各部分についている名をてらしあわせて訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に解体新書五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで、これから蘭学がさかんになった。このように蘭学の泉はここにわき出て、日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。
一九五九年・昭和三十四年三月五日
第十五回日本機学会総会の機会に日本医史学会
日本医学会
日本医師会