キリスト教 伝来の地
きりすときょうでんらいのち
鹿児島市電「高見馬場」停留所の北300mにあるザビエル公園。ここはザビエル上陸400年を記念して鹿児島市が作った公園で、“キリスト教伝来の地”の碑と“ザビエル滞鹿記念碑”“ザビエルと薩摩人の像”などが建つ。
イエズス会宣教師であったフランシスコ・ザビエルは、薩摩人ヤジローの案内で1549(天文18)年に鹿児島に上陸した。薩摩藩主・島津貴久は一時領内での布教を許可したものの、やがて布教を禁ずるようになり、ザビエルは1年足らずの後に鹿児島を去った。このため、鹿児島はキリスト教伝来の地ではあったがキリスト教が根付くことはなかった。
“ザビエルと薩摩人の像”の3人はザビエルとヤジロー・ベルナルド(いずれも薩摩人)。“ザビエル滞鹿記念碑”は、太平洋戦争の際に焼失した記念聖堂の壁の一部で、「フランシスコザビエル 聖師滞鹿記念 天文18年西暦1549年8月13日」と刻まれている。
写真
碑文
キリスト教伝来の地 IntroductionofChristianity
白坊主と呼ばれた聖師 THEMONKSINWHITE
――この地から、日本のキリスト教史が始まった――「博学にして礼儀ある人」と島津家菩提寺福昌寺の老僧であった忍室という和尚は、宣教師フランシスコ・ザビエルの学識と人柄をたたえました。二人の親しい交わりは「白坊主(ザビエル)と黒坊主(忍室)の語らい」として記録されています。
1549年(天文18)8月15日イスパニアのザビエルは日本人ヤジロー(鹿児島出身)の案内で、鹿児島に上陸し日本へのキリスト教布教の第一歩をしるしました。島津家15代貴久は伊集院の一宇治城でザビエルと対面し、領内布教を許可しました。ところがその後、仏教徒の激しい反対にあったり、期待した貿易船がやって来なかったことで貴久は布教に冷たくなります。鹿児島を去ったザビエルは平戸から山口、堺、京都まで足をのばし、日本のキリスト教伝道の道を開き、豊後(今の大分県)の沖之浜からマラッカ(今のマレーシア南西部)にむけて帰航の途につきました。そして、ついに1552年中国で亡くなりました。
日本滞在中にザビエルは初代インド管区長に任命されています。
なお、この石造りの建造物は、明治年間に建てられ戦災で焼失した記念堂の一部です。戦後の1949年ザビエル渡来400年を記念して、ローマ法王の寄付金をもとに教会が建設され、同時にザビエルの胸像も建てられました。胸像作者 柳田昌(鹿児島市出身)