高原野菜 発祥の地

こうげんやさいはっしょうのち

国道141号 野辺山高原サラダ街道沿い、小海線 野辺山駅から北に3.5kmほどの、八ヶ岳高原ロッジ方面の曲がり角付近に、背の高い石碑が2基、それぞれがビミョーな距離感で建っている。

曲がり角に近い方は、開拓記念碑と刻まれ、もう一方は形やサイズが似ているが天辺に白菜のモニュメントを乗せて「高原野菜発祥の地」と刻まれている。

なお、隣の川上村には「高原野菜発祥発祥の村」なる碑が設置されているが、おそらく同じ頃に建ったものかと推察する。川上村の碑は、あの賞を獲ったなどの記述が多く、南牧みなみまき村の碑は昭和9年(1934)に高見澤武人氏が始めたことによると理由が記されているという差異がみられる。

また、碑文に記されているが、菅平にて白菜生産を学び持ち帰ったということで、野辺山高原以前に菅平ですでに白菜生産が始まっていたことから、八ヶ岳高原の高原野菜発祥地である。

なお、この数週間ほどまえにこの道路を通ったばかりだが、往路は川上村を回ったため通らず、復路はすっかり暗くなっていたので気づかなかった。

写真

  • 高原野菜発祥の地
  • 高原野菜発祥の地 背面 碑文
  • 石碑背後に広がる畑地
  • 開拓記念碑
  • 故井出舜供養塔

碑文

高原野菜発祥の地

昭和八年頃、高見澤武人氏は菅平で白菜栽培技術を学び、その技術を野辺山に持ち帰り独自に試作するなどの努力を重ね昭和九年に高品質の白菜を作ることに成功した。昭和十年には古澤武雄氏、高見澤正一氏と共に野辺山高原野菜出荷組合(高見澤武人氏組合長)を作り、この年に開通したばかりの小海線で神戸の青果市場に初めて出荷した。小海線全線開通と時を同じくして野辺山高原の野菜作りの夜明けであった。昭和二十六年〜三十七年迄は美濃早生大根の一大産地となったが、連作障害等で産地は消滅し、その後高原野菜に替え、トラック輸送、土壌改良等により生産量も増加し、八ヶ岳高原野菜発祥の地となる。
板橋、樋沢、海ノ口の有志五十二名により南牧村開拓農業組合(初代組合長 高見澤孟治氏)を昭和二十三年に設立した。

南牧村開拓農業協同組合 代表清算人 深海孝平

南牧村開拓農業協同組合

開拓記念碑

長野県知事 吉村牛良 書

碑文

南牧村開拓農業協同組合は昭和二十五年十一月九日緊急開拓事業実施要領に基く国の開拓政策により敗戦復興の為め混迷と不安の中で食糧の確保と自作農創設の為め野辺山原の開拓計画が作定され野辺山の(二)地区と定められ旧軍用地内(海之口、板橋、樋沢)地域の開拓事業は南牧村緊急開拓組合が推進となり入植者並に地本増反者により開拓が行はれた 昭和二十三年十一月二十二日三地区より選考された入植者及び広瀬開拓地区の入植者を含め同士五十二名により南牧村開拓農業協同組合を結成し大東亜戦争終戦直後の極めて混乱窮亡の世相の中にあって暁の耕也に鍬を振り幾多の筆舌つくし難い困難辛苦と闘い苦節五十有余経た その結果今日の高原野菜産地の発展に丈酪農の先達と組合員の生活の向に些かつとめ得たと確信し組合員の使命を集結したのでここに解散することにした よって往時を偲び同志の健闘を永久に残さんと碑に刻し開拓の証とする

平成十二年六月吉日

歴代組合長、建設委員、南牧村開拓農業協同組合員(芳名略)

原文侭

地図

地図

南佐久郡南牧村板橋 付近 [ストリートビュー]