高専柔道之碑

こうせんじゅうどうのひ

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京阪本線 神宮丸太町駅から東に約1km、京都地下鉄東西線 東山駅から北に1km、平安神宮西に接する武徳殿(左京区聖護院円頓美町52)前に石碑が建つ。平成21年(2009) 除幕。

高専柔道大会(全国高等学校専門学校柔道優勝大会)は、大正三年(1914) に京都帝国大学柔道部の主催により、京都の武徳殿において 開始された。第一回大会への参加は第四高等学校、第六高等学校、第七高等学校の三校のみであったが、年々参加校が増加し、昭和十年代には四十数校に達する規模へと拡大した。

第十二回大会からは京都帝国大学と東京帝国大学による帝大柔道会の主催となり、翌第十三回大会からは東北帝国大学と九州帝国大学もこれに加わった。これにより、東部、中部、西部の三地区代表校が武徳殿で優勝旗を争う体制が確立され、 大会は柔道団体戦の華として隆盛を極めた。しかし、昭和16年(1941) に戦時体制が強化された際、文部省の指令によって中止され、27年間の歴史に幕を閉じた。

歴代の優勝校には、第四高等学校、第五高等学校、第六高等学校、松山高等学校、北海道帝国大学予科、関西学院高等商業学校、拓殖大学予科、同志社高等商業学校、松山高等商業学校が名を連ねた。

大会の試合形式は、すべて15人の勝ち抜き勝負による団体戦であり、勝負の判定は一本勝ちのみとされた。また、試合者の自由な勝負を尊重する観点から寝技への引き込みが認められていた。この特有のルールにより、本大会を通じて寝技が高度に進歩し、全国へと普及した。全国の高等学校および高等専門学校の柔道部員は、武徳殿への出場を目指して寝技の稽古に励み、独自の秘術を開発して試合を展開した。

このように、発祥の地である武徳殿は高専柔道の寝技発展を記念する殿堂であり、当時の若者たちの闘魂が宿る場所となっている。太平洋戦争 後、この高専柔道大会の伝統と精神は、旧帝国大学を引き継いだ国立七大学による七大学柔道優勝大会へと受け継がれた。

写真


碑文

高専柔道之碑

高専柔道之碑

全国高等学校専門学校柔道優勝大会(略して高専柔道大会)は、京都帝国大学柔道部の主催で大正三年(一九一四) に、ここ武徳殿において始まった
第一回大会は、第四高等学校、第六高等学校、第七高等学校の三校のみの参加であったが、年々参加校が増えていき昭和十年代には四十数校に達した。
第十二回大会から京都帝国大学と東京帝国大学による帝大柔道会の主催となり、翌第十三回大会からは、東北帝国大学と九州帝国大学が帝大柔道会に加わり、東部、中部、西部の三地区代表校が武徳殿で優勝旗を争うことになった。高専柔道大会はますます隆盛を極め、柔道団体戦の華となった。しかし、昭和十六年に戦時体制が強化されて、大正・昭和前期と一世を風靡した本大会は、文部省の指令で中止となり、二十七年間の幕を閉じた。
各大会の優勝校は、第四高等学校(一〜七回の七連覇)、第五高等学校(八回)、第六高等学校(九〜十六回の八連覇と二十回)、松山高等学校(十七〜十九回の三連覇)、北海道帝国大学予科(二十一回)、関西学院高等商業学校(二十二回と二十五、二十六回の二連覇)、拓殖大学予科(二十三回)、同志社高等商業学校(二十四回)、松山高等商業学校(二十七回)であった。
高専柔道大会では、すべての試合が、十五人の勝ち抜き勝負による団体戦で、勝負判定は一本勝ちだけとした。また、試合者の自由な勝負を尊重して、寝技への引き込みを認めたので、本大会を通して寝技が高度に進歩し、全国に普及した。全国の高等学校・高等専門学校の柔道部員は、武徳殿出場を夢見て寝技の稽古に打ち込み、毎年新たに開発してきた寝技の秘術を尽くして、白熱した試合を展開した。
武徳殿は、柔道の寝技発展を記念する殿堂であり、青春のすべてを高専柔道大会に賭けて奮励努力した若者たちの闘魂が宿る殿堂でもある。
高専柔道は、心技体を鍛えた幾多の有為な人材を育成し、柔道と日本社会の発展に大きく貢献した。なお、第二次大戦後、高専柔道大会の伝統と精神は、旧帝国大学を引き継いだ国立七大学による七大学柔道優勝大会に受け継がれている。
ここに、第三高等学校・京都帝国大学柔道部卒業生の故長谷川繁夫氏(平成十七年四月二十六日逝去)の遺志を受けて、高専柔道之碑を武徳殿に建立する。

平成二十一年(二〇〇九)三月十五日

京都大学柔道部 長谷川繁夫記念寝技振興会

書  吉川壽一
制作 和泉正敏

地図

地図

左京区聖護院円頓美町 付近