京都市 陶磁器 試験所 発祥地
きょうとしとうじきしけんじょはっしょうち
清水寺の近く,東大路通の“東山五条”交差点から狭い道を北北西に50mほど入ると,西側に六原公園(京都市東山区梅林町576-6)がある。公園の中に“六原自治会館”の建物があって,その前に「京都市陶磁器試験所発祥地碑」と書かれたやや小型の石碑が建っている。
粟田焼・清水焼など京都の焼物は総称して“京焼”と呼ばれ,江戸時代から茶道の流行に伴う茶陶器の製造が盛んになった。明治維新後は文化の変化に伴い茶陶の需要は激減したものの,欧米向けの輸出品の製造が盛んになり,名声を博した。しかし 当時の陶磁器の製造は徒弟制度による技術の継承・後継者の養成が行われたため,新しい技術の開発は進まず,京焼は次第に衰徴を見せはじめた。明治22年(1889) に京都で開催された第4回内国勧業博覧会では,京都産の陶磁器は保守的で他府県の進出に比べてそれまでの声価を維持できなくなったことが明らかになった。
このため有志者の運動により,明治29年(1896) この地に「京都市陶磁器試験場」が設立され,製造技術の開発と技術者の養成が行われた。試験場では 原料や釉薬の研究改良,製法の機械化,焼成窯の改良などを進め,従来の手工的方法を改めて 工場の生産能率を高め,広く陶磁器製作の振興に努めた。
この結果,明治36年(1903) の第5回内国勧業博覧会では優秀な成績をおさめることができ,京都陶磁器試験場の名声は高まり,殊に管轄の農商務省も当試験場の効果を認め,大正8年(1919) には 全国を指導する陶磁器研究機関として「国立陶磁器試験所」に昇格し,伏見区深草正覚町に移転した。
昭和27年(1952),国立陶磁器試験所は機構改革の一環として 京都から名古屋へと移り,機械試験所や東京工業試験所と合併して「名古屋工業技術試験所」となった。
発祥碑のある六原公園の南に隣接して,レンガ造りの2本の煙突が建っている。“藤平登窯”と呼ばれるこの煙突は,明治中期に建造された藤平陶芸社の登窯の跡である。京都市内で完全な形で保存されている唯一の登窯で 2000坪もの面積があり,昭和43年(1968)まで現役で陶器が焼かれていた。しかし 大気汚染防止法などの規制が強化されたため,住宅の密集する京都の町中での操業は困難となり,ガスや電気の窯に役割を譲って廃窯となった。現在は文化遺産として昔のままの姿で保存されている。
写真
碑文
京都市
磁器試験所発祥地明治廿九年八月一日
事務ヲ開始ス
浅見 薫 筆