三ツ矢サイダー 発祥の地
みつやさいだーはっしょうのち
能勢電鉄妙見線 平野駅から、国道173号に沿って北に約400m、東にホームセンターのある場所にかかる三ツ矢橋を渡ってさらに北へ200mほど進むと、見なれた三ツ矢紋が描かれた塔が立っている。敷地は金網によって区切られていて、その金網に、三ツ矢サイダー発祥の地である案内看板が掲げられている。
江戸時代には温泉場として栄えた平野鉱泉が、明治時代になると飲料に適しているとされ、明治17年(1884)には初の飲料水工場として三菱(三菱財閥系の三菱グループとは関係ないが、スリーダイヤの紋章を使う)が平野水を製造したのが三ツ矢サイダーとしての始まり。後に三ツ矢の名を冠し、アサヒ飲料に吸収されて現在に至る。
東洋一の飲料水工場であった当地も、昭和になると炭酸ガス製造も中止となり移転解体されたものの、現在でも当時の御料品製造所の建物や源泉井戸が保存されているらしい。すぐ近くの能勢電の踏切からちらりと見やることができるが、見学会があるならば、ぜひとも間近見てみたい(明石工場で展示があるそうです)。「三ツ矢サイダーの碑」もかなり気になる存在。
写真
碑文
三ツ矢サイダー発祥の地(平野鉱泉工場跡)
川西市平野は、江戸時代には「摂津三湯」のひとつ「平野湯」として栄えましたが、明治時代には鉱泉工場が進出しました。明治14年(1881)、明治政府の意を受けたイギリス人ガランにより、この地に湧き出る鉱泉が飲料用に適したことが発見されました。
明治17年(1884)には、わが国最初の飲料水工場が誕生し、「平野水」の生産が始まっています。その後、「平野シャンペンサイダー」、「平野ジンジャーエール」などの商品が生産されましたが、対処4年(1915)には「三ツ矢」の商品名に改められ、とくに「三ツ矢シャンペンサイダー」は長く全国的に親しまれました。また、大正時代には東洋一を誇る工場に成長し、海外にも輸出されました。残念ながら、西宮工場への移転に伴い、昭和29年(1954)には炭酸飲料水の製造が中止され、昭和42年(1967)には炭酸ガスの製造も中止されました。
工場の建物は失われましたが、明治45年(1912)に造られた大正天皇の皇太子時代御用の「御料品製造所」のほか、源泉井戸が現存しています。アサヒ飲料株式会社