新潟港 水先案内 水戸教 発祥地
にいがたこうみずさきあんないみときょうはっしょうち
信越本線の新潟駅から北北東 北北西に3km。湊小学校の100mほど北に 日和山と呼ばれる高さ数メートルの小さな丘がある。丘の上の住吉神社に上る階段の脇に「新潟港水先案内水戸教発祥地」と書かれた木製の標柱が建っている。
“水戸教”と聞くと何やら新興宗教のようだが,そうではなくて,新潟港の水先案内や海難救助をする事業のことだという。辞書を見ると,“水戸”という単語は,
み‐と 【水門・水戸】
海水の出入口。また、大河の海に入る所。みなと。
堰。すいもん。(広辞苑)
とあり,“水戸教”は そこで“教=おしえ”をすること,つまり水先案内のことを意味している。全国的に珍しい名称である。
新潟港は信濃川の河口にあり,水深が浅い部分があって 船の出入りに際しては水先案内による誘導が必須だった。この日和山は 当時の河口に近く港がよく見えたようで,江戸時代の中頃(寛政年間)から 代々伊藤家が水戸教の職を世襲し,1929年(昭和4年)に県の直営となるまでまで続いたという。
後に信濃川の河口が移動し 港が遠くなったため,ここ日和山から港を望むことはできなくなり,現在は伊藤家が祀った住吉神社だけが残されている。
写真
碑文
新潟港水先案内水戸教発祥地
日和山
Hiyoriyama新潟日和山 水先案内 水戸教
東堀通十三番町
Higashibori - dori 13江戸時代の和船は,雨や風の影響を受けやすい構造だったので,航海には常に危険が伴いました。そのため,船頭は湊に近く見晴らしのよい高台で,日和(天気)の良し悪しを見て,出帆を判断しなければなりませんでした。
また,河口に位置する新潟の湊は,「かんぬき州」と呼ばれる浅瀬ができやすかったので,それを避けるため,船の水路(水戸)を教える水先案内(水戸教)が必要でした。そのため,町の北端にあるこの高台の上に船見櫓を設け,日和や船の出入りを観測していたのです。
このように日和山は,新潟湊にとって「管制塔」の役割を果たす,重要な場所でした。頂上には,方角を知るための「方角石」,湊に入る目印となる「日和の松」,航海の安全を祈願する「住吉神社」の3つの宝が設けられています。