神道無念流発祥之地碑
しんとうむねんりゅうはっしょうのちひ
北陸新幹線・信越本線・長野電鉄・しなの鉄道 北しなの線 長野駅から北西へ12km、長野県飯綱高原 大座法師池の北の畔に石碑が建てられた。令和4年(2022) 夏には除幕式が執り行われたという。
石碑は、本体、神道無念流の起こりについての説明、伝書写し、芳名録の4つのパートから成っている。石碑に管理者まで刻んで明らかにしているのはたいへん珍しいように思う。
写真
碑文
飯縄山
神道無念流発祥之地碑
神道無念流
碑文
飯縄山(一九一七m)は神棲む山、霊山として、古くから人々の暮らしを支え、古里の山として崇められてきた。この山は信仰の山として個性豊かな信仰文化をも育み、山頂には飯縄大権現を祀る飯縄社が本社として鎮座し、末社は全国各地に拡がり、その数千余とも言う。
この山は、麓の社会を支え発展させて、多彩な信仰文化を育む母体であった。飯縄信仰は、妖術を使うなど他に例を見ない独自性を持ち、上杉、武田氏など戦国武将たちが飯縄大権現に深く帰依し、広く庶民に至る迄広まった。
日本の武術文化を代表する神道無念流が、此処飯縄山から生まれ、広く全国に広まった。神道無念流の技は、「五加五形」「非打十本」「立居合十二剣」に代表され、何時の時代も各修業者の個性を活かし大成することを目指して来た。その精神は「和」と「心技一体」を根本理念としている。
神道無念流を開いたのは、飯縄大明神の神霊を受けた福井兵右衛門嘉平(一七〇二~一七八二)である。嘉平は野中権内について新神蔭一円流を学び、更に技を磨くため諸国武者修行に励み「信濃の国、飯綱の神に特に霊験あり」と聞き、ここ飯縄に籠もり五十日間修行し、、飯綱大明神の化身でもある白髪の老翁に出会う、老翁は云う「若者よ、社に参拝して何を祈っているのか」さらに「剣法は奥深いものであり、みだりに伝授することはできない、篤い志を持つ者でなければ、どうしてその要妙を語れようか」と一度は突き放したが、福井翁の純真な探究心を認め、手合わせすること数度、ついに心技一体の妙技を伝授され、神道無念流を開いた。
爾後、戸賀崎熊太郎、岡田十松を経て幕末から明治にかけ、斎藤弥九郎、桂小五郎や、高杉晋作等多くの剣豪を排出する。儒者の藤田東湖、画家の渡辺崋山もこの流派に学び、明治の政財界の指導者であった初代内閣総理大臣の伊藤博文や銀行や造船等起業し日本の資本主義の父となった渋沢栄一もこの流派から生まれた。明治、大正、昭和にかけては、大日本武徳会を牽引した根岸信五郎、中山博道がいる。この様に近代日本の政財界・武道界の礎を築くにあたり、神道無念流は大きな役割を果たした。
日本の担い手である若者を育成し、永遠平和と繁栄をもたらし地域の健全な発展を目指す象徴として、ここに神道無念流発祥の地として記念碑を建てる。二〇二二年八月
神道無念流発祥之地碑建立委員会
信徒無念流(伝書)
凡神道無念流、立居合剣術、福井兵右衛門嘉平、欲極刀法之玄境、而普巡歷諸国。到于信州、参籠飯縄大明神、而祷求刀法之微妙。日既久矣。其間多有奇兆異瑞。巳及五旬。忽然一老翁、来間日。汝祷求於此有故耶。予応日。将窺刀法心悟而巳。翁亦問日。欲窮心悟而業亦兼備乎。予乱欲試其心術而謂日。我修業有年於此矣。於是、採木剣雖尽秘術、殆不可当。因心伏而附足下日。請先生説面命之秘術、以教授余。翁日。吾子可教示。由是、留止又七日、諸流之玄境、無所一秘、而尽口授焉。予於此、略極刀法之微妙矣。翁将行、問日。請聞先生之姓名郷国。翁漠然日。汝免身之時有姓名乎。日無、翁亦日。我来於兹猶免身赤児。言未了、須臾而不見。予愕然日。奇哉異哉。翁言語之間、唯謂刀法耳。嗚呼、翁有而無、無而有、所謂神明乎。噫神明不可測。猶茫然至、無念之地矣。是剣術之確言。此外無物。実非神明之現示、而唯能為也。余撮所見為教授之妙要、而建居合立合剣術一流。是非予狐意。故名神道無念流。而公于世。抑無念流之為無念、大矣哉。
信州 飯縄大明神 元祖 老翁神道無念流は 立居合の剣術である福井兵右衛門嘉平は 刀法の玄境を極めんと欲す。而して あまねく諸国を巡歴した。信州に到り飯綱大明神に参籠し 而して 刀法の微妙を祷求(とうきゅう)した。日は既に久しかった。其の間に多くの奇兆異瑞(きちょういずい)があった。すでに五旬に及び 忽然として一老翁があらわれ来て 問うて言うことには「汝が此で祷求sるにはどんな故からか」。予が応えて言う「将に刀法の心悟を窺いたいだけである」。翁がまた問うて言う「心悟を窺って 而してまた業を兼備することを欲すか」。余は乱れて其の心術を試さんとし 而して理由を言う「我の修行は此に於て何年も経った。是において 木剣を採り秘術を尽くしたが 殆ど当たらなかった」。因って 心伏して足下に附して言う「先生に請います。まのあたり秘術を説いて 余に教授されんことを」。翁が言うには「吾子が教示しよう」。是に由り 留まることまた七日、諸流の玄境を一つも秘することなく 而して 口授を尽くした。予は此に於いて ほぼ刀法の微妙を極めた。翁が将に行こうしたので 問うて言う「諸のこと先生の姓名。郷国をお聴きしたい」。翁がとりとめなく言うには「汝は生まれたとき 姓名が有るか」。応えて言う「無し」。翁がまた言う「我がここに来たのは 生まれた赤児とおなじである」。言葉が未だ終わらぬうちに わずかの間に見えなくなった。予は愕然として言う「奇かな 異かな」。翁の言語は 唯だ刀法の謂れだけであった。ああ 翁は有るようで無く無いようで有る。いわゆる神明である。ああ 神明はおもんばかることができない
なお茫然として無念の地に至る。是は剣術の確言であり、此より外に無い。実に神が現示したのではなく 而して唯だよく為したものである。余は所見をとり 教授の妙要を為すばかり。而して 居合立合の剣術の一流を建てる。是予の狐意に非ず。故に神道無念流と名付ける。而して 世に公にし、そもそも 無念流の無念と為す。大なる哉。
神道無念流記念碑芳名
(芳名略)
令和四年八月九日
神道無念流発祥之地碑建立委員会一同管理者
(一社)飯綱高原飯綱高原観光協会
施工者
㈱岡沢石材・㈱飯綱観光開発