稲荷木小学校 発祥之地
とうかぎしょうがっこうはっしょうのち
総武線
市川市は京葉道路の江戸川大橋より東側で, 江戸川によって南北に分断されている。 江戸川は明治43年(1910)に起きた大洪水を契機に, 江戸川放水路(現在の江戸川本流)を開削したため, 南北にわけられたこの一帯(当時 行徳町)を相互につなぐ道として 行徳橋が架設されたものの非常に不便で, 生活圏は完全に南北に分断されてしまった。
児童の教育の面では, それ以前は河原(江戸川放水路の南側の地区名)に地域共通の小学校があったものの, 生活圏の分断により放水路北側地区からは通学できなくなり, 大正5年(1916) にこの地に行徳町立行徳小学校の分教場が開設され, 昭和27年(1952) には現在地(稲荷木1丁目)に校舎を新築して移転。 その後、行徳町が市川市に合併されたため, 昭和31年(1956)に「市川市立稲荷木小学校」として 新しくスタートした。
写真
碑文
稲荷木
小学校発祥之地市川市長 高橋国雄 書
由来
当地域は利根水系デルタ地帯で古来幾多の洪水高潮に襲われ江戸時代から治水対策が実施され, 特に大正九年に完成した江戸川放水路の開削は治水事業上特筆されるものである。
明治六年河原に開設された六合小学校(稲荷木大和田河原下新宿上妙典下妙典)は放水路開削のため分散しこのため大正五年此の地に行徳小学校分教場(二教室四学年複数学級)が開設された。
昭和二七年四月稲荷木一丁目十四番に行徳小学校分校として新築移転。三一年四月市川市立稲荷木小学校となり現在に至る。昭和六十一年十一月吉日
本記念碑は稲荷木小学校創立三十周年を祝し 併せて子ども達の健全に成長されんことを祈り 往時の教えの場を後世に残すべく, 稲荷木の教場修了生有志一同相集い合い 開係機関の協力を頂き, 建立せしものである。
発起人(芳名省略)