市川梨 発祥の地

いちかわなしはっしょうのち

京成電鉄・京成八幡駅(KS16)から約250m東に“葛飾八幡宮”がある。神社の参道の途中、市川市民会館の前に大きな石碑と市川市教育委員会による説明板が建っている。

川上翁遺徳碑

市川市の農業特産品は梨。生産額は約30億円で千葉県一といわれる(ちなみに全国1位は鳥取県、千葉県は2位)。市川市北部には多くの梨農家があって、秋の収穫シーズンになると幹線道路の両側に多くの直売所が並び「梨街道」と呼ばれたりする。

市川梨の由来については碑文に詳しいが、「市川梨」という梨の品種があるわけではなく、一般には“市川周辺で生産される梨”というような意味で使われている。品種としては、かつては「長十郎」と「二十世紀」が、現在は「幸水」「豊水」「新高」などが主に生産されている。

写真

  • 川上翁遺徳碑 説明板
  • 川上翁遺徳碑
  • 葛飾八幡宮

碑文

川上翁遺徳碑

 川上翁は名を善六といい、寛保2年(1742)1月、八幡村大芝原(現・八幡2丁目)に生まれました。幼少の頃から祖父を助け、父に仕えて農業に励みましたが、祖父の代からの借財は、今まで通りの生活ではとても返済できるものではありません。そこで彼が思いたったのは、江戸に近い当地での梨栽培でした。

 善六が梨栽培を始めたのは明和7年(1770)のことで、その後、美濃国(岐阜県)を訪れたおり、梨の良種を得て帰り、八幡宮の別当寺であった法漸寺の境内を借りて梨園を開きました。それが数年後見事な果実をつけ、江戸の市場で、高値で取引されるようになると、善六は村人にその栽培を奨励し、たちまち八幡一帯には梨園がひろがりました。これが「市川梨」の起りです。

 祖父や父によく仕え、新しい産業によって家を興した善六の努力と親孝行が、広く世間に知られると、代官から褒美が下され、苗字と帯刀が許されました。また、善六は少年の頃から学問を好んで読書に耽り、後には漢学を志し、孟慶と号して村人に読み書きを教えました。

 善六は梨栽培で財をなしても決して奢らず、温恭実直に世を送りましたが、文政12年(1829)8月、87歳で歿しました。村人から「梨祖」と仰がれ、大正4年(1915)その遺徳を後世に伝えんと、市川梨発祥の地に建てられたのが、この遺徳碑です。

昭和56年3月
市川市教育委員会

地図

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葛飾八幡宮 付近