日本の 宇宙開発 発祥の地

うちゅうかいはつはっしょうのち

中央本線・西武国分寺線 国分寺駅の北東400mの場所に 早稲田実業学校があり、正門前の広場に2つの記念碑が建っている。前面の国分寺街道に近い方が「日本の宇宙開発発祥の地碑」、奥にあるのは 王貞治 国民栄誉賞受賞記念の碑である。

「日本の宇宙開発発祥の地碑」は、本年(2006) 4月1日に除幕式が行われたばかりの ホヤホヤに新しい記念碑である。碑は やや凝った構造になっていて、中央の碑文を囲むように 黒い御影石の板に刻み込んだ写真パネルが 4枚添えられている。

  (上) 若き糸川英夫博士
  (下) 「燦 ペンシルロケット」の文字と 松本零士氏のイラストとサイン
  (左) 「当時の計測方法 電気標的」
  (右) 「1955年ペンシルロケット水平発射」

この場所は、かつて「新中央工業」の工場があった。 「ナンブ銃」などの銃器の製造を手がけていた同社には 銃を試射するためのピットがあった。東大・生産技術研究所の糸川英夫教授は、ペンシルロケットの開発・実験を行うために このピットを借り受け、1955(昭和30)年4月に初めてロケットの水平発射実験を行った。

ロケット本体の開発・製造は 東京・杉並区にある 富士精密工業行われた。(「ロケット発祥の地」(荻窪) 参照)。

同年8月には 秋田県・道川海岸において 斜め発射実験が行われ、成功のうちに終了した。 (「ロケット発祥の地」(道川) 参照)

この後 日本のロケット開発は ベビー・カッパ・ラムダ・ミュー……と進展し、組織的にも 「東大宇宙航空研究所」から 「宇宙開発事業団(NASDA)」に変化し、現在の「宇宙航空研究開発機構(JAXA)」に発展した。

なお、王貞治碑は、早実で活躍して昭和34年(1959) 卒業後にプロ野球入りした氏が、昭和52年(1977) に巨人軍の王貞治選手が プロ通算756号ホームランを打ち、ハンク・アーロンの記録を破って 世界新記録を樹立したことを顕彰して、同年 国民栄誉賞の第1号受賞者となったことを記念したものである。

写真

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  • 日本の宇宙開発発祥の地
  • 日本の宇宙開発発祥の地 イラスト部
  • 日本の宇宙開発発祥の地 碑文とペンシルロケット
  • 日本の宇宙開発発祥の地 糸川英夫博士像
  • 日本の宇宙開発発祥の地 計測方法
  • 日本の宇宙開発発祥の地 水平発射
  • 日本の宇宙開発発祥の地 背面
  • 王貞治碑
  • 日本の宇宙開発発祥の地 背面
  • 王貞治碑
  • 日本の宇宙開発発祥の地(2019)
  • 日本の宇宙開発発祥の地(2019)
  • 日本の宇宙開発発祥の地(2019)

碑文

日本の宇宙開発発祥の地

 1955年(昭和30年)4月12日この地において東京大学生産技術研究所の糸川英夫教授を中心とした若い研究者によって日本の宇宙活動の嚆矢を告げ ペンシルロケットの水平発射が行われた。その50周年を記念してここに記念碑を建立する。

 この碑の地下には2005年に子供たちが夢見た「50年後の宇宙ロケット」のデザインや 当時の人々から「50年後の人々へのメッセージ」がタイムカプセルに収められ、埋められている。

 ペンシルロケット発射からの100周年にあたる2055年4月吉日に宇宙航空研究開発機構、早稲田実業学校、国分寺の有志、立会いのもとでこのタイムカプセルを掘り起こして来し方の100年を偲び、さらにつづく50年へ決意を新たにすることをここに提言する

2006年4月1日  「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰会

 この記念碑は「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰会の発意に基づき、国分寺市民並びに 諸団体、早稲田実業学校関係者並びに校友会、宇宙航空開発機構(JAXA)関係者、全国の宇宙開発に関心を寄せられる方々の寄付によって完成しました。

2006年4月1日  「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰会
  小川重行

「日本の宇宙開発発祥の地」筆
    国分寺市長 星野信夫

地図

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国分寺市本町1丁目 付近 [ストリートビュー]