わさび 栽培 発祥の地

わさびさいばいはっしょうのち

東海道線静岡駅から北に30Km。静岡の市街地から県道27号線と29号線で安倍川をさかのぼり、渡本どもとから安倍川本流を離れて東に分岐する。わさび田や茶畑の間を曲がりくねった道を3Kmほど上ると有東木うとうぎの集落に入り、特産品展示販売施設 うつろぎ(静岡市葵区有東木280-1)が出迎えてくれる。うつろぎの建物の前に「わさび栽培発祥の地」と刻まれた大きな自然石の記念碑が建っている。その脇には「記念碑建立について」という副碑もある。

わさびは日本原産で、古くから自生のものを薬味として利用されていたようだが、江戸時代初期にこの地・有東木沢の村人が、野生のわさびを湧水地で栽培したところ成功し、有東木地区での栽培がはじまった。有東木のわさびは駿府城に入った徳川家康に献上され、家康はその珍味を称賛し、わざびを有東木から門外不出の扱いにするよう命じ、その栽培技術を他地区に広げることは禁じられた。

延享元年(1744)、伊豆天城の板垣勘四郎が椎茸栽培の技術指導で有東木を訪れ半年間をすごしたが、その間にわさびの栽培を目にして伊豆でも栽培したいと熱望。有東木の住民は椎茸栽培技術を教えてくれた板垣への感謝の気持ちから、帰国の際に禁を犯してわさびの苗を持たせた。この結果、天城でもわさびの栽培が始められることになった。

しかしこのことは間もなく幕府にも聞こえて評定が行われたが、町奉行は「有東木の者が渡したのは弁当で、板垣等が伊豆を思う気持ちが弁当の飯をワサビに変えてしまった」と粋な裁きをして難を逃れた、という言い伝えがあるらしい。この話は脚色が多く、どこまでが真実なのかは不明。

余談だが、わさび(本わさび)の地下茎は保存に向かないため、チューブ入りの“煉りわさび”などとして市販されているものは、本わさびではなく、セイヨウワザビを原料としている。セイヨウワサビは色が白く匂いも少ないため、本わさびの茎や葉を混ぜたり、緑色に着色し香料が加えられたりしている。

写真

  • 山葵栽培発祥の地
  • 山葵栽培発祥の地 碑文
  • 山葵栽培発祥の地 碑文 背面
  • 山葵栽培発祥の地
  • 有東木の案内
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  • 有東木の案内地図

碑文

わさび
栽培発祥の地

静岡市有東木

記念碑建立について

 山葵栽培は今から遡ること約四百年の昔、慶長年間に有東木沢の源流である「山葵山」に自生していたものをある時、村人が採集して村内の井戸頭という湧水地に栽培したところ、これが適地であり成長繁殖した。そこで村人達がこぞって栽培を試み、やがて栽培法は各地に広められたので、ここ有東木を「山葵栽培発祥の地」と言う。
 慶長十二年七月(1607)駿府城に入城した大御所徳川家康公に山葵を献上したところその珍味の程に天下の逸品と嘉賞し、ついに有東木から門外不出の御法度品とした。また徳川家の家紋が葵の紋であったことから、ことさら珍重したと言われている。
 延享元年(1744)三島の代官斉藤喜六郎の命を受けた伊豆天城の住人板垣勘四郎が椎茸栽培の師としてこの地に派遣された。任務を終えた板垣は帰国に際し、庄屋が弁当籠に忍ばせた山葵の苗を密かに持ち帰り栽培したのが伊豆の山葵栽培の始まりと言われており、山葵関係者の語り草となっている。
 明治十年、有東木山葵の先覚者、望月重太郎の東京での内国博覧会入賞は安倍での山葵栽培を広める契機となり、更に昭和二十三年頃から普及した平井熊太郎考案の畳石式田床改良及び栽培技術の開発により質量ともに向上し、安倍山葵の名声は益々高まった。
 今日に至るまでには、元禄十六年(1703)及び享保五年(1720)の大洪水をはじめ幾多の台風災害等自然災害の暴威にさらされた。しかし、その都度全力を傾注し山葵栽培の伝統を守るべく、復旧に尽力した住民や石工達の労苦を忘れることはできない。
 時は流れ、ここに改めて先人達の遺徳を忍び、特産品「山葵」に対する感謝の念を後世に伝えるべく平成の改元を期してこの記念碑を建立するものである。

平成四年三月八日

山葵栽培発祥之碑建設委員会

記念碑協賛団体
静岡市
安倍農業協同組合
安倍山葵業組合
静岡県わさび漬工業協同組合
有東木町内会
記念碑建設委員会
委員長 白鳥勝義
副委員長 白鳥徳 小沢鉄也
事務局 大村鈴太郎 宮原孝雄
会計 白鳥正文
委員 出雲清司 白鳥徳一 望月勝次 西島友一 白鳥儀光 宮原悦郎 宮原寿穂 白鳥健一

地図

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