東海大学 建学の地

とうかいだいがくけんがくのち

東海道本線 清水駅から南東に5km。清水港を包み込むように伸びた三保半島のつけ根に東海大学 清水キャンパスがある。正門から入った正面に,高さ3mほどの大きな石碑があり「東海大学建学の地」と刻まれている。その足下には「建学記念碑建立之由来」という副碑がおかれている。

東海大学は 約29,000人の学生数(2009年)を有し,国内トップ10に入る規模の大学。北海道から九州まで全国に10のキャンパスがあり,学部数も20を超える。

東海大学の創始者 松前重義氏は逓信省で『無装荷ケーブルによる多重通信方式』等の画期的な発明を行った技術者で,「国づくりの基本は教育にあり」との考えから,昭和16年(1936) に東京武蔵野に「望星学塾」を開設。この塾は間もなく閉鎖されたが,のちの東海大学の母体となった。その後は技術系の専門学校を設立し,太平洋戦争後「東海大学」となった。戦後に開設した大学でありながら旧制大学であり,新学制によって新制大学になったのは昭和50年(1950) であった。

この「東海大学建学記念碑」は 昭和63年(1988)に 建学45周年を記念して,かつての航空科学専門学校の仮校舎があった三保の松林の中に建立されたが,平成13年(2001) に清水キャンパス内に移設された。

なお,下記の碑文に『創設者の校訓「若き日に」の四ヶ条』という文言が書かれているが,これは創立者が唱えた「建学の精神」を指す。

若き日に 汝の思想を培え
若き日に 汝の体躯を養え
若き日に 汝の智能を磨け
若き日に 汝の希望を星につなげ

写真

  • 東海大学建学の地
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  • 東海大学

碑文

東海大学建学の地

建学記念碑建立之由来

 東海大学の創設者松前重義は若き日に「人生いかに生くべきか」に思い悩み,心の支えを求めて内村鑑三先生の門をたたき,ドイツとの戦に破れ,その復興は青年の教育にありとして国民高等学校を興した,デンマークの国民高等学校の父といわれるグルントヴィの思想にふれ「わが人生の目標は教育にあり」と決意する。
 この思いはつのり,同志と共に自宅の一室で「聖書研究会」「教育研究会」を開く。昭和十一年(1936),松前重義は逓信省(現在の郵政省)の若手研究グループのリーダーとして,電気通信技術の革命といわれる「無装荷ケーブル通信方式」を発明,その功績に対して電気学会より「浅野奨学祝金」を受け,また同志諸兄の寄付によりその資金をもとに私塾「望星学塾」(東京・三鷹)を開く。この活動が原動力となり昭和十七年(1942年),財団法人の認可を得,昭和十七年(1943年)東海大学の前身「航空科学専門学校」を開校した。
 当時の清水市長山田勝四郎氏の熱心な懇請と松前重義の「文教環境」重視の考え方が一致し,この地清水市三保に建学の第一歩をしるした。それは,当地日本列島の中央に位置し,秀麗冨士をのぞみ,伝説の香り高い三保の松原と黒潮の打ち寄せる太平洋を眺望できる景勝の地であったからである。
 以来四十五年,東海大学はあらゆる困難をのりこえ,国内はもとより世界的にも注目される大学へと発展している。
 ここに創立四十五周年を記念し,十二万人におよぶ同窓生の総意を結集し「建学の原点忘れまじ」の思いをこめて,創設者の校訓「若き日に」の四ヶ条を刻み後に続く青年子女諸君の人生の道標たらんことを願いこの地に建立されたものである。

一九八八年三月吉日 東海大学

地図

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清水区折戸3丁目 付近 [ストリートビュー]